on outline processing, writing, and human activities for nature
以下の記事を読みました。R-style の倉下忠憲さん経由で知った記事でした。
ぼくにとっても、興味深い問題に触れた記事でした。この文章を書いた方は、中学か高校の教員をしていらっしゃるのでしょうか。中学などの教育現場を直接は知らないのですが、ぼくなりにこの問題を考えてみました。
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中学の頃だったと思います。ぼくは、自分で考えることが楽しいと、はっきり意識するようになりました。そのきっかけのひとつは、科学の考え方に出会ったことでした。
ぼくに限ったことではないと思うのですが、学校の定期試験や受験のために勉強しようとすると、試験でよい点数をとるための作業だけで手一杯な気持ちでした。今思うと、たとえば満点とろうなんて気負わなければ、それほどたくさん作業する必要もなかった気がします。でも、そこは若気の至り、試験を過大評価していたのだと思います。
試験勉強に追われ、自分で考える時間をとりにくい、いや、そういった時間をとる心の余裕がない状態を何とかしたいと、まじめに考えました。そしてかなりの荒技ですが、試験勉強をやめることにしました。中学3年のとき、先生たちがこう話してくれたのを覚えています。「あなたは、やらないと決めたことは、ほんとうにやらない」。困ったような、褒めてるような、どちらともとれる顔をしていました。でもこれは、先生たちの買いかぶりもあったと思います。
ただ、このことについては、いい加減なぼくなりにがんばりました。そして、中学後半だけでなく、高校3年間も試験勉強しない努力 (?) をつづけました。とくに高校に入ってからの成績はめちゃくちゃでしたが、自分で選んでそうしたのですから、成績の悪いことはむしろ誇りだったように覚えています。
そのおかげで身をもって体験できたのですが、試験勉強をやめると時間のたくさんあること、あること。これで時間の問題は解決です。
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そうやって手にした時間、ぼくはまず、生物学や数学などの大学生向けテキストや専門書、『Scientific American』や『科学』など一般向け科学雑誌の論文をながめながら、ノートをとりました (ほんとは高校の頃、学校近くにあるキッサテンでぶらぶらしたり、ひとりでディーゼルカーに乗って遠くへ行き、大きな渓谷を歩いたり、山登りしたりもしてましたが、それはまぁナイショと言うことで.. 笑)。
このノートのとり方が、ここで一番お話ししたいポイントです。
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まず、大きめのノートを買いました。そして、その左側のページに、本や論文をながめながら、自分なりに理解したと思ったことを文章にしました。論文についているアブストラクト Abstract のようなイメージです。その本のメッセージを凝縮した文章です。
具体的に話します。ひとつの節や章など、ある程度の文章のまとまりを読み終えると、その文章をできるだけ見ないようにしながら、その節や章のアブストラクトを書きます。読み方は自由で、重要そうなところに傍線引いてもいいし、ドッグイヤーするのでもいい。読み終わったらすぐアブストラクトを書くことだけは、しっかり意識するようにします。
アブストラクトがうまく書けないときは、まだその文章を理解できていない可能性が高いので、もう一度読み直します。同じ範囲を読み直しても状況が同じなら、より小さい単位に分けて文章を読み直し、その小さな単位のアブストラクトをつくります。場合によっては、パラグラフごとにアブストラクトを書くこともあります。
ある程度読み進み、複数の章など大きなまとまりを読み終えたら、その章のアブストラクトたちをまとめたアブストラクトをつくります。この複数アブストラクトのアブストラクトを、仮に大アブストラクトと呼ぶことにしましょう。大アブストラクトができたら、つぎの大きな文章のまとまりへ進みます。そこでも同じように節や章ごとにアブストラクトをつくり、それらの大アブストラクトをつくります。そして、さらに大きなまとまりを読み終えたら、その大アブストラクトたちをまとめた大大アブストラクトをつくる、という形で作業をつづけます。このプロセスを繰り返すと、最後には、本のメッセージを、たったひとつの文章にできます。それを目標にしました。
今振り返ると、この作業は、本のアウトラインを俯瞰して、その鍵になるメッセージを理解するためのプロセスです。この作業を繰り返しながら本のメッセージをひとつの文章にできたとき、その本を自分のものにできた気がしました。手間ひまかかりますが、それでかまいませんでした。時間はたくさんありましたし、急ぐ理由などありませんでした。
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このアブストラクトをつくる作業をやっていると、分からないことや、内容とはあまり関係のないアイディアが頭に浮かびます。また、本文の論理が飛躍していたり矛盾していたりすることにも、気づくようになります。これを、ノートの右ページに注釈のように書きました。
最初は短く書いていましたが、やがて注釈というレベルを超え、大きく膨らみ、右ページだけ何枚も書いたりするようになりました。
この右ページですすめた作業は、今思うとフリーライティングです。本の内容と全然ちがうことでもとにかく、その場で思いついたことを文章で書くようになりました。このフリーライティングのアブストラクトをつくることもありましたが、そのままにしておくことも多かったと思います。
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ほぼ思いつきで始めた方法ですが、ぼくにとっては、かなりうまく機能するやり方でした。
読みたい本や論文を考える作業のきっかけとして、書かれている情報を理解し自分のものにする作業と、その文章の意図にしばられず自分なりのアイディアを育てる作業を、大きなノートの左右で並行して進めたワケです。
途中で他の本が読みたくなったときは、気にせず作業を中断しました。また、厳密には決めませんでしたが、本ごとに別のノートを使いました。もとの本にもどったとき、作業を再開しやすいと思ったからです。
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実は今も、本腰入れて自分のものにしたい論文や本があるとき、このやり方でノートをとりながら、考えを進めています。ただし、大きなノートを使う代わりに、アウトライナーというソフトウェアを使います。でも、やり方のフレームワークはほぼ同じです。
今、ぼくのアウトライナーファイルに入っている文章をながめると、およそ3割が論文や本のアブストラクト、4割から半分がフリーライティングの機能をもっています。そして、残りの2−3割が、この2種類の機能の垣根を超え、かつ、人にも読んでもらうことを意識した文章です。
アウトライナーに出会う前、読んでいる本の余白に、アブストラクトとフリーライティングするやり方も試しました (手元にノートがなく、仕方なく始めたのがきっかけでした)。でも「本の余白は小さい」という心理的なプレシャーが原因で、フリーライティングのフリーという感覚がなくなることが気になり、やめてしまいました。
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最初の「考える体力」の記事にもどります。
「考える」ということに上手く子どもをつなげていくために、どんなことが必要なんだろう? まだまだ、先が見えません。
ぼくには、試験勉強をこなしながら自分で考える時間をとる根性がありませんでした。そんなぼくが、自分の意志で考えつづけられた理由のひとつは、大きなノートといっしょに本を読み、アブストラクトをつくりながら思いっきりフリーライティングするという、自分なりのやり方を見つけたからだと考えています。
このやり方は、ちっとも独創的ではありませんし、泥くさいものです。似たようなアイディアを、より洗練した形で提案している人がたくさんいると思います。でも、そんなことはどうでもよいワケです。自分にあった道具とそれを使うシンプルなルールを、自分で見つけたことが大きかったのです。
そしてこれが、この記事を書いた先生の悩みを減らすヒントになるのではないかと考えています。1) 気軽に真似できそうな、身近な道具とそのシンプルな使い方を具体的に伝えること、そして、2) そのやり方だとなぜうまくいくのか、理由を推理しながら、それを自分にあった形に修正する機会を設けること。この2つが、考える技術を磨くきっかけになるのではないか、というアイディアです。
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さいごに、もうひとつ。
中学や高校の頃、この自分のやり方で手にしたアイディアは、ほんとうにナイーヴなものでした。でも、そのアイディアは、今のぼくの大切な土台になっています。これは、胸を張って言えることです。