gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


忘れてしまうぼくたちが忘れないために

1. はじめに

たとえば小学生が、好きなメニューを給食に復活させるため、見知らぬオジサンと平等に交渉する。脱知的生産の技術が広まった社会では、こんな光景が普通になる。脱知的生産の技術とは、日々の生活を満ち足りたものにするコツであり、私たちの社会をメンバーすべてが暮らしやすいものにする手段である。脱知的生産の技術は、会社で働く大人だけの技術ではない。この星に暮らすすべての人に役立つ、生きるためのコツである。

雑誌『かーそる』に、「人間の条件?」というタイトルで上のような記事を書きました。そして、小学校で教員をしながらブロガーとして活躍している Lyu さんから、こんな感想と意見をいただきました。

 子どもの知的生産の技能を,学校,家庭,地域社会で育てる ー若干の異論を添えて…

これを読んで嬉しくなかったというと、ウソになります。まさしくこういった意見を、「異議あり!私はこんなことやってます!!」っていう意見を、もらったり議論したりする風景を想い浮かべながら、この記事を書いたからです (これも知的生産のプロセスですよね)。

でも、もしぼくの記事を読んだ方が、教員の皆さん個人の努力を否定しているように感じる表現があったとしたら、それはぼくの力不足によるものです。Lyu さんの記事を読み、そんな誤解をよぶ部分があったのではと反省しました。

「人間の..」で皆さんに伝えたかったのは、教育現場で努力をつづけている Lyu さんのような教員の方、個人の問題ではありません。教育システムと呼べばいいでしょうか。学校も一部として含むシステム全体に問題があり、それを変えるという重たい課題を乗り越える糸口として「知的生産の技術」があるのではないか、という提案がねらいでした (Lyu さんは、大変前向きに理解してくださっていると感じています)。

2. 背景

最初に、できるだけフェアに意見を書く心がまえのため、この記事に関係する自分のことを話します。

ぼくも (Lyu さんのような方を前にすると、お恥ずかしい限りなのですが) 教員をしています。大学です。なので、ぼくが「人間の..」に書いた学校という言葉の中には、小学校やハイスクールだけでなく、大学も入っています。そして下に書くような理由から、幼稚園も含んでいます。

1990年代に環境系の NGO で働いていました。当時、環境教育と呼ばれていた活動に興味をもつ同僚が多く、ぼく自身の仕事の一部でもありました。勉強会に参加したり企画したり、学んだことを盛り込んだプログラムを職場である小さな自然保護区で催したりしました。

アメリカやイギリスの学校や自然保護区で実践されている教育プログラムなどを学んだのも、その勉強会だったと思います。

(欧米の保護区は、生きものたちのための施設であるとともに、人々が生きものや自然のしくみを本物をとおして学んだり、その知識を保全活動に活かす技術を学びながら実践する場としても機能しています。)

もうひとつ、ぼくはカミさんから大きな影響を受けています。彼女は、市の施設である保護区でレンジャーと呼ばれる仕事をしたあと、今は、ボランティアとしても仕事としても、小さな幼稚園の運営に関わっています。その保護区で出会った幼稚園です。

その幼稚園は、園舎のない幼稚園で、雨の日も晴れの日も、夏も冬も、森を歩きます。年長組みの子どもたちが毎朝話し合って、歩くコース (道以外のヤブや崖も) や遊ぶ場所 (広場以外のヤブや崖も) を決めるそうです。

森には子どもたちの名づけた木があり (例: ちんくん、神さまの木)、子どもたちは、たとえばどの木が登りやすくてどうやって登れば楽しいかを、よく知っています。その森のプロフェッショナルとしての知識と技術が、大きな子どもたちから小さな子どもたちに継承されているそうです。

その幼稚園について話したいこともたくさんあるのですが、ここで書きたかったのは、ぼくがそんな彼女の影響を強く受けている、という点です。

以上から分かるように、ぼくが教育について知っていることの多くは、同僚やカミさんからの耳学問で、自分で勉強したのは NGO 時代の一時期だけですし、今の職場は、大学の研究室という少し特殊なものです。なのでぼくには、教育という活動に対して苦手意識があります。

それでも、知的生産の技術というものを捉え直そうと思ったとき、まっさきにジェイミーの小学生のことが受かんできました。そして、知的生産を見直すという視点から、ぼくが発信できる部分もあると思い、勇気を出して「人間の..」を書きました。

3. 忘れてしまうぼくたちが忘れないために

本題へもどります。

Lyu さんが示してくださった、「自分の頭で考え、他人に分かる形で提出する」技術を伝えるための授業(でよいですか?)、すばらしいと思いました。

そして、川の水の成分やそこにいる生きものたちのことを調べた(でよいですよね?)あと、自分たちが気づいた問題を解決するために自分たちでアポイントメントをとり区役所の方たちと交渉した子どもたちは、一生の宝もののような経験をしたのだと感じました。

ぼくも Lyu さんと同じように、授業で学んだ「技術」を子どもたちが忘れてしまう問題こそ、まずは取り組むべき課題ではないかと、考えています。

子どもたちが忘れてしまう可能性を小さくする策として、Lyu さんは、学んだことを学校外でも生かすような場の必要性を指摘していると理解しました。これに大賛成です。

子どもたちが、学校で学んだ技術を、自分の生活に役立つものであると身を持って感じ取るためには、学校の教員だけでも家族だけでもなく、社会のメンバーみんなが、そういった技術を生かす場づくりを心がける必要があると思います。

そういった社会に近づくためには、学校にいる大人も、学校の外にいる大人も、「知的生産の技術」を知っているだけでなく、実践をとおして身につけていることが必要かもしれません。

4. システムの改良をめざす

ぼくの理解する限り (まちがっていたらぜひ指摘してください)、Lyu さんが紹介してくださったプログラムの多くは、意識ある教員の個人的な努力に負うところが大きいのではないかと、考えています。

そして、その努力を実りあるものにするには (=子どもたちが忘れないようにするためには)、 教育システム全体がそれを目指すようになることが大切なのではないか、と考えています。

システム全体で目指すとは、たとえば、理科や国語といった科目にしばられず、できれば幼稚園や小学校、あるいは中学や高校といった組織の枠にもとらわられず、幼稚園から大学、あるいはその先までを見とおしたビジョンを育てると言えばいいでしょうか。日本という国で育つ人たちが、どのような知識と技術(技道?)を身につけていってほしいのかという大きなスタンスをもつことです。

今のシステムは、おそらく「知的生産の技術」の優先度を低くしているか、そのキモとはちがう部分を重視しているのではないでしょうか。「人間の..」で話したかったことは、そういったシステム全体の問題点でした。

システム全体が実践的なビジョンをもつことで、たとえば、総合学習という枠の中だけでプロセスがひとつ完結して終わりとはならず、算数や理科の授業でも、同じテーマが手を変え品を変え登場し、繰り返し学ぶことになります。

Lyu さんやぼくたちが考える「知的生産の技術」を、まず幼稚園で学び (例: きょうはどこでどうやって遊ぶ?)、小学生ならではの課題で応用し (庭にくるシジュウカラはどうやって子育てするんだろ?)、それがハイスクールでさらに発展する (町にすむシジュウカラが減っとる。オレらがなんとかするぜよ!)、なんてプログラムができたらすばらしいですよね。

5. 余白がない?

5年以上前になりますが、東京都のある中学2年の美術の授業で、絶滅の可能性があるカモメの仲間のデコイ (模型) をつくり、それを中学のそばにある保護区に置いて鳥たちを呼び寄せよう、というプログラムに関わったことがあります。鳥たちが子育てしやすい環境を保護区につくり鳥を呼びよせるというやり方は、海外ではとても盛んで、それに倣ったワケです。

そのとき、美術の先生に「デコイをつくって保護区に置くという4時間の授業だけでなく、あと数回でいいので保護区に通ってもらい、やり直しをしたり (生きもの相手に1回でうまく行くことはまずありません)、鳥たちがデコイに引き寄せられてやってくるところを見たりする機会をつくりたい」と提案しました。

(ほんとうは、生きものが絶滅することの意味や、そもそもこんなことする必要あるの?なんてことを、話したり実行したりする時間も欲しかったのですが、その妥協案として考えました。)

しかし、先生は (残念そうな顔をしていらっしゃったと思います)、卒業までにやらなければいけないカリキュラムがつまっていてとてもそんな時間はとれない、とおっしゃっていました。そして中学生たちは、自分のデコイの隣に座り込んで巣づくりする本物の鳥たちの姿を、見ることができませんでした。

2年生の美術の時間でもそうなのですから、たとえば3年生の理科や数学の時間まで割り込むことは難しいだろうなと、少し暗い気持ちになったことを覚えています。そして、長い時間にわたってゆっくりつづける (=失敗しながら学ぶことができる) プログラムを進めるには、科目や学校の枠を超えた大きな軸が必要だと実感しました。

6. おわりに

ぼくの悪いクセで、大風呂敷の理想論に走りました。

でもやっぱり、システム全体を変えるなんて無理!と頭からあきらめるのではなく、変えられるところから変えようっていう気持ちは、もちつづけたいですよね。Lyu さんもきっとそうではないかと感じています。

そのためには、Lyu さんのような熱心な教員の個人努力だけでなく、ぼくたち社会のメンバーみんなが、自分の学んだ技術を駆使しながら、この問題に取り組んでいくことが、大切なのだと考えています。

そしてこの技術こそ、本当の意味の知的生産の技術なのだと、考えているワケです。