gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


小学2年生たちの賢明

 小学2年のたしか11月、担任のT先生が休みをとった。

 前日、授業の最中に先生が倒れたことは、今もよく覚えている。あとで、それが大きな病気の兆しと分かるのだが、そのときはそんなことより、色んな先生が入れ替わり立ち代わり授業をしてくれることに、みんなはしゃいでいた。

 3時間めの国語の担当は、M先生だった。内容は覚えていないけれど、T先生の何倍もの速度で授業が進み、最後に宿題が出た。新しい漢字を何十回かずつ書きなさいという、出す側にとってシンプルな宿題だった。

 すごい速度で進んだ授業だったので、単純に考えても半端ではない量なのが分かった。それは多すぎると、みんなで半ばふざけながら言ったのだけど、M先生は黙って教室を出て行った。

 その日の授業が終わり、いつものように、Kくんと森に入ったり、冬なのに田んぼの水路で虫を探したりしながら直線で15分の距離を1時間半かけて帰ったあと、ぼくにしてはめずらしく、すぐに宿題を始めた。

 途中で夕飯食べてまた漢字を書き始め、10時を過ぎたあたりでどう考えても12時でも終わらないと、焦ったことを覚えている。

 実際に宿題が終わったのは午前1時すぎだった。父は仕事があるからと眠ってしまい、母はお寺の仕事をしたり毛糸の帽子や手袋を編んだりしながらぼくをまっていた。それがまた申し訳ない気がして、達成感などなく悲しかった。こんなに時間がかかったのは、自分のせいだ。

 *

 その翌日はよく晴れた日で、T先生が少し元気になって戻ってきた。国語の授業では、あらそんなに進んだのと先生は笑いながらつづきをはじめる。だれも、きのうM先生が出した宿題については触れないうちに、授業も終了。

 先生が席を外したときに、まわりの人にきのうの宿題のことを聞いた。全部で19人のクラスだったので、すぐにほぼ全員の反応が返ってきた。ぼく以外、だれも宿題をやっていない (たぶん)。だってM先生はきのうだけの担当やし、あんな量できるはずないやん。

 これは正論だ。ぼくはこのとき、ようやく気づいた。言われたことをしっかりやることは、決して正しいことではない。自分が何をどれくらいやるかは、自分の責任で自分が決めることなのだ。

 そして、宿題の意味について、こう考えた。宿題は、先生個人との約束なのだ。だとしたら、最初に約束しなければ、宿題などしなくてもいい。

 で、なまけもののぼくは、宿題をやらないと自分に誓った。

 *

 それから何年か経った中学や高校のころ、仲よかった先生たちから「君はやらないと決めたことは、本当ににやらない」と困ったような嬉しいような顔をして言われたことは、もちろんこの誓いのおかげである。