gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


いい本の条件

ぼくにとって、まいったなってくらいにいい本ってのは、読み終わったあとその作家が大親友だといいなって感じるような、コレいいと思ったらいつでもその人に電話したいなって感じるような、そんな本なんだ。(ホールデン・コールフィールド、『The Catcher in the Rye』の主人公)

 文学ってなんだろうと、考えることがあります。そう考えるようになったのは、ヘンリー・ソーローの『森の生活』を読んでからでした。

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 この本を、ぼくは日本語で読んでから、英語でも読みました。最初に日本語で読み始めたとき、なんて退屈で理屈っぽい本なんだろうと、心底思いました。でも、淡々と読みつづけることにしました。そうするのがいいと予感したからです。そして案の定、最初の章の 2/3 くらい読んだところで、コレおもしろいっていう実感が湧いてきました。最後は読み終わるのが惜しくて、ちょっとずつ読みすすんだのを覚えています。

 日本語訳の2回目を読んでいる途中で、英語を最初から読み始めました。Kindle (eBook reader) と iPad 2 で電子版を読みました。英語の出だしは、日本語より退屈じゃないと思いましたが、日本語で内容のよさを知ったあとですから、この比較はフェアじゃないですね。よかったなと思い出すフレーズも英語が多いですが、最後に読んだのが英語でしたから、日本語より英語がいいと結論してはいけないですね。

 何がよかったかというと、この本を読んでるうちに、著者のソーローがそばに座って、ああだこうだと直接話しかけているように感じたことです。口うるさい近所の兄ちゃんの話しを、聞いているような感覚を覚えました。100年の時間と1万キロの空間を超えて、ソーローをとても身近な人と思いました。もし彼が今生きていたら、いやあの夜のトウモロコシのところもよかったけど、湖のアビの話しは最高だったよなんて、メールしたい感覚でした。

 こういった感覚を覚えた本は、あまり多くありません。意外かもしれませんが、デカルトの『方法序説』やスピノザの『エチカ』を読み進んでいるときにも、同じ感覚になったのを覚えています。彼らがたとえば、午後のカフェでテーブル向かいに座って、きのう考えたんだけどさ、やっぱり今の研究者のやり方ってよくないと思うんだよとか何とか、400年の時間と1万キロの空間を超えて、話しかけてくる気がしました。

 『森の生活』も『方法序説』もいわゆる小説のような文学作品ではありません。でも、時代や文化の違いをゼロにして、自分のすぐそばにいる人のメッセージのように感じさせる技こそ、文学という芸術の賜物ではないかと、ぼくは考えるようになりました。

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 これが、文学にくわしくないぼくがたどりついた、文学って何という問いへの、今のところの答えです。