on outline processing, writing, and human activities for nature
憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。
あの有名な『幸福論』の中で、アランはそう言っています。彼は、20世紀のはじめにフランスの高校で、哲学の教員をしていました。
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たとえばあなたが、短い物語りを書いている途中で、週に何とか4時間、その時間をとることができるとします。
今は、土曜の午後。大切な4時間の半分をとることにしている日です。でも、あるパラグラフを書いたり消したりで、もう1時間が過ぎてしまいました。
この調子だと、短いはずの物語りができあがるまでには、あと1か月以上かかりそうです。あさっての月曜には、ひととおり原稿を仕上げておきたかったのに..。
とっくのむかし (と言っても先週なかば) に原稿を仕上げたと言ってたあいつや、半年前に原稿が雑誌に載って今やうわさの人になってしまったあの人のことが、頭に浮かんだりします。
それにくらべ、こんな部分さえうまく書くことができないでいる自分に、がっかりしそうになったりします。
そんな時は「遠くをごらんなさい」。
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まずは、文字どおりに遠くを見ます。
原稿を書いている机から、窓の外、ベランダの向こうにあるコナラの黄色くなった葉っぱをながめるのもいいですし、その遥か向こう、山の端に生えたあれはエノキかな、風にそよぐ枝をわたるエナガという鳥の群れに気持ちを馳せるのもいい。
そうすることで、人生すらかかっているように感じる原稿から、自分の気持ちをオフにできます。枝から枝へ飛びわたりながら、小さな虫をついばむエナガの生活が、原稿を書いている自分の生活と同じくらい大切に感じることができます。
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外を歩くのも、遠くを見る手段のひとつです。そうすることで、書いている原稿から自分を遠ざけることができます。
歩きながら目に入る森や石垣、そこに生えている植物、道沿いにあるたてものと同じ階層にある要素として、自分の原稿を見ることができます。
今、すれちがったあの人。だんだん近づいてくる石垣とケヤキ。そして、原稿を書いている MacBook が置いてある机と椅子。
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数百年前のたてものや、数万年前にできた地層の見える崖が近くにあるなら、そういった場所に行って見るのはどうでしょう。
遠い昔から、今をながめるきっかけになります。空間だけでなく、時間の距離を大きくすることができます。
たとえば、鎌倉時代の職人たちがつくったお寺の本堂の前に立って、深呼吸します。そうしながら、この小さな本堂ができたばかりの頃、本堂の縁側をこちらへ向かって歩いてくる僧侶、境内の広場で庭木を手入れしている人たちのことを思い浮かべて見ます。
崖のそばに立って、埋まっている貝殻や、丸くて小さな石に触りながら、目の前の崖がまだ浅い海の底にあった時代の風景に思いを巡らせて見ます。
そうするだけで、自分が大きな時間の流れの一部に過ぎないことの幸せを、思い出すこともできます。
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アランは、「憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ」とも言っています。この真意を、ぼくはまだ理解できていませんが、今のところこんな風に考えています。
新しいプログラム言語を分かりやすく解説した本をひととおり読み終えたとき、ぼくたちは、そのプログラム言語を使えるようになった気分にひたることができます。
しかし、生活の中で実際に出会った課題を、その言語を使って解こうとすると、うまく解けないことがあります。そして、自分がまだ、その言語を使えないことに気づきます。
読むことで、ぼくたちは、自分ひとりではたどり着かない巨人の肩に乗った気持ちになります。
でも読んでいるばかりでは、実のところ巨人の肩に乗ることはできていない。大切なことは、その情報を出発点にして自分の体を動かすことではないか。
だからこそ「遠くをごらんなさい」。
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アランの言う「遠く」には、抽象化された大切な意味が込められています。でも、こうした抽象的なメッセージを自分のものにする具体的な作業をうながす意味も含んでいると、ぼくは考えています。
漠然とした不安が、自分の心のどこかに住みついているような気がするとき。そして
まわりの人たちがどんどん先に行ってしまうさびしさに囚われそうなときや
締め切りに追われて「もうダメ!」なんて叫びたくなったときは
「遠くをごらんなさい」。
100年前のフランス、ノルマンディの片田舎に広がる麦畑の中で空を見上げながらのんびり歩く、口髭のアランを想いながら。