gofujita notes

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サッカーをスタジアムで観る

 サッカーの試合を観たり、サッカーについて話したりするのは大好きで、カミさんと2人、地元の日産スタジアムにも3か月に2回くらいの頻度で通っている。

 スタジアムに行くようになった理由はミーハーなもので、たしか11年前、バルセロナというスペインのクラブチームが、親善試合で日産スタジアムへ来たのがきっかけだった。あれは8月の夜、駅からライトアップされた大きなスタジアムが見えた。スタジアムについて階段をのぼる途中、観客席入り口から見えた明るい緑の芝生は、別世界のようだった。

 今考えるとバルサの選手たちはシーズンに向けて調整に入ったばかりだから、とてもゆるくプレーしたのだと思うのだけれど、カミさんもぼくも、彼らのプレーに魅せられてしまった。当時のバルサは、フランク・ライカールトというオランダ人が監督だった。ドレットヘアにスーツ姿が決まっていて、移動バスから降りた彼の姿が大スクリーンに映し出されたとき、スタジアム全体から拍手が起こったように覚えている。歓声が一番大きかったのは、10番のロナウジーニョで、今はとても有名なレオ・メッシはたしか18才。Aチームにデビューして1−2年だった。

 バルサの選手たちは、本当に楽しそうにサッカーをしていた。あと、これは個人的な感覚かもしれないけど、サッカーという試合は、ボールがないところの選手の動きまで見えると、10倍くらい楽しくなる。ボールに反応して、ピッチ全体の選手が流れるように動きつづける光景は、おもしろいし、美しい。

 サッカーのコーチ (監督) は、自分のチームに、勝つための仕組みを実現しようとする。相手からボールを奪い、それをゴールへと運ぶための仕組み。選手たちは、その監督のアイディアを土台に、自分のプレーで、自分のサッカーを表現しようとする。そのプレーに応じて、コーチはさらに仕組みを変更したり、選手に注文を出したりする。この調和がうまく実現しているチームの動きを見ていると、ほんと、ため息がでるくらい、奇跡のような美しさを感じる。

 さて、そのシーズン、バルサはほとんど負けることなく、スペインのリーグで優勝しただけでなく、ヨーロッパのクラブチーム1番を決めるチャンピョンズ・リーグ、2つのタイトルを獲得して、ライカールトやロナウジーニョ時代の黄金期を迎えた。ぼくたちがファンとしてのめり込んだのも、仕方ないことだったのかも知れない。

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 それからは、海外に行ったときも、時期が合えばスタジアムに行くようになった。バルセロナのカンプ・ノゥという9万人入る巨大スタジアムや、ロンドンのスタンフォード・ブリッジというオシャレなスタジアムにも行った。スタンフォード・ブリッジは、チェルシーというクラブのホームスタジアム。

 でも、ぼくの一番のお気に入りは、スタンフォード・ブリッジと同じロンドンにある、クレヴン・コテージ。フラムFCという、今はイングランドの2部リーグ (Champion league) にいるクラブのホームである。

 フラムは当時、プレミアリーグの真ん中あたりの順位をいったりきたりしていた。バルサと対照的なボクトツとしたサッカーをするチームで、いわゆるうまい選手よりも、よく走り、よくぶつかり、よくボールを蹴っ飛ばす人の多いチームだった。そのカラーは、今も同じだと思う。

 その日の対戦相手のトットナムも、これまた似たタイプのチームで、この2つのガチンコの試合は、ほんと楽しかった (今、トットナムはスペイン人監督を迎え、プレミアリーグの優勝争いをするような強いチームになったのは、うらやましいかぎり)。

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 で、クレヴン・コテージ。日本だと考えにくいけど、木造のスタジアムで、2万人くらいしか入れない。大スクリーンや電光掲示板も一切なくて、ピッチも小さめ (知っている人も多いと思うけど、サッカーのスタジアムのピッチには規定の大きさというのがない)。ゴールネットも奥行きが浅くて、ゴールマウスから観客席まで2m足らずに見えた。シュートのときなど、そのゴールすぐ後ろに座っていれば、すごい迫力だったろう。

 観客席にはびっしり、ほんとうにびっしりサポータが詰めかける。いろんな歌をうたいつづけ、選手たちのプレーに大きく反応する。小学生くらいの子どもたちもいて、みんな声がとても大きいし、声を出すタイミングもうまい。

 いいなぁと思ったのは、日本のように、拡声器もった応援リーダーみたいな人がいないようで、どこからともなく歌が始まり、30秒後にはそれがスタジアム全体にこだまする。たとえば、本当にチームの踏ん張りどころでは、歌うだけでなく、みんなで足踏みを始める。木造のスタジアムだから、そのドン、ドンという足踏みが大きく響き、やがてスタジアム全体が揺れるように感じたときは、全身鳥肌がたった。

 もっといいなぁと感じたことは、拍手や応援の歌 (チャント) のタイミング。日本のスタジアムだと、相手がミスをしたときに拍手が起こることが多い。いちばん多いのは、相手のサイドチェンジなんかのパスがずれてボールがピッチの外に出たとき、応援側のサポータから一斉に拍手が起こる。自分たちのチームのボールになるのだから、拍手したい気持ちはわかるけれど。

 クレヴン・コテージでは、選手がよいプレーをすると、必ずと言っていいほど拍手が起こっていたと思う。たとえば、ディフェンダーのひとりがボールをもった相手フォワードに体をぶつけ、少しボールがずれたところを、予測していたかのように別のディフェンダーがすかさず奪ったとき。あるいは、ボールはもっているのだけど相手のプレッシャーに押され気味の中、一気にゴールが近づくような縦パスをボランチの選手が出したとき。サポータたちは、その瞬感ごとにしっかり反応して拍手する。

 さらに、そういう拍手を何度ももらうような選手、つまり、いいプレーを続けている選手が見えてくると、その選手の名前を連呼しながら歌い始める。その試合では、アフリカから来たパントシルというディフェンダーの名前が、スタジアム全体に何度も鳴り響いた。彼は、繰り返しピッチの端から端まで走り、決定的なピンチを防ぎつづけた。そして、名前を呼ばれたパントシルは、スタジアムに向かって、手を上げてお礼する。スタジアムの9割以上を占めるサポーターたちは、さらに声を高くしてパントシルを讃える。

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 そして、何よりもうらやましく思ったのは、とてもへたっぴーに見えるプレーであっても、勇気をもったプレーには、みんな躊躇なく声援と拍手を送ること。とくにシュートした選手には、たとえそれが、とんでもない方向に飛んで行ったり、空振りみたいなシュートが転がったりしても、必ず拍手が起こった。カミさんと2人、「これだと、選手たちもみんな思いっきりシュートできるね」と話したりした。

 残念ながら、この風景を日本のスタジアムで見たことがない。日本で育った選手は、なかなかシュートしないことが多いとぼくは思っている。その理由のひとつが、観客からのシュートするという勇気への賛辞がないことかなと、そのとき思った。

 ちょっと話しは強引だけど、これはサッカーなどのスポーツに限らず、教育というシステムに共通する問題かなと、テキトーに考えたりもしている。失敗に対するペナルティが大きいと、実際のリスク以上にそれを避ける技術が磨かれることになる。逆に、たとえ失敗しても、そのリスクにチャレンジした勇気を讃える報酬があれば、チャレンジする技術を磨くことができる。

 当たりそこないのシュートがぼてぼてとボールが相手キーパー前に転がる中、そのシュートを打った選手に立ち上がって拍手をおくるフラムのサポーターを見たとき、このちがいは、とても大きなちがいなのかなと感じた。

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 まぁ、どこへ行ってもサッカーを観るのは楽しいし、それだけで十分なのだけれど。