gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


騙せない

ぼくの限られた経験では、ほとんどの科学者はある程度の経験を重ねると、他人の研究の良し悪しを、すぐに見抜けるようになる。手間ひまかけてつくられたすばらしい研究や、手間ひまかけてないにもかかわらずすばらしい研究、つまり作者の才能きらめく作品はおよそ一目で分かってしまうようになる。

言い換えるとそれは、手間ひまかけていない (= 手を抜いた) すばらしくない研究も、大体一目で見抜けてしまう、ということでもある。

だからもし、あなたが科学を志し始めたばかりで、手間ひまかけたように見せかけることに手間ひまかけるかけているのなら、そんなことさっさと止めて、研究をよくするための手間ひまをかける方が賢明である。見せかけの手間ひまを作り出すことはもちろん不可能ではないだろうけど、本当の手間ひまかけをかけた良い研究をつくりだすよりも、20倍、いや200倍くらい大変なのだ。

そして最近、珈琲の味も、見せかけの努力が通用しないものじゃないかと、思い始めている。自慢じゃないけど、ぼくは珈琲豆のことをほとんど知らない。でも、珈琲を好きになってから15年経った。それくらい経験を積むと、出てきた珈琲の香りと味で、その珈琲一杯の背景に、どれくらいの手間ひまがかかっているかくらいは、分かるようになると気づいた。

珈琲を好きになるきっかけをくれたのは A くん。彼は毎朝、研究室にくるとまず、ニヤニヤしながら珈琲豆をミルに入れ、でこぼこのケトルでお湯を沸かし始める。そのニヤニヤのまま腕を高速回転させて豆を挽き、ニヤニヤを少し抑え気味に挽いた粉を蒸らしたあと、ニヤニヤレベルを再び高めてでこぼこケトルでお湯を注ぐ。そして、珈琲の渋で真っ茶色になったカップで淹れたて珈琲を飲みながら、少し宙を見上げてにっこりする。

その後 A くんはフィールドで出会った BBC クルーにあこがれて、日本のテレビ局に就職した。念願の自然番組のスタッフになった今、彼は取材のために世界中を旅しているそうだ。彼はきっと、ハワイ島の断崖絶壁でもコスタリカのジャングルでも、ニヤニヤしながら珈琲を淹れてるいるにちがいない。これは 100% 請け合う。

さて。ぼくの町にはカフェがたくさんある。おそらく年に5件くらい新しいのができ、同じ数かやや少なめのカフェが店じまいする。新しいカフェができれば、必ず行くといった新しいもの好きではないけど、たまたま通りかかって日あたりのいいテラスにテーブルが置いてあったり、珈琲やオリーブオイル (これは珈琲とは無関係だけれど) の香りがしてると、つい入ってしまう。大した理由はないけど、人の多い W 通りや K 通りにできたチェーン店などはあと回し。

新しいカフェに入ったら、やはりまずは珈琲を飲んでみる。珈琲一杯にかけている手間ひまを、言葉はちょっと悪いけど、値踏みしている感じ。研究の作品がそうであるように、珈琲の味にもオリジナリティがある気がする。そうかこう来たか、という感じで驚くことがある。そうすると、ぼくはしばらくしげしげと、その店に通うことになる。そういう味の珈琲を、彼や彼女はどこでどうやって発見したのか、何となく見えるようになるまで。

そして、これはかなりの自信をもって言えるけど、オリジナリティの高い珈琲を出す店は、この地球上に少なくともいくつかは存在しており、その店の人たちは、珈琲一杯入れるのに、想像を超えた手間ひまをかけている。自分の気にいった豆を気にいった形でローストしている珈琲豆屋さんを日本中探したり、ローストする釜をうちにつくったり。自分で豆を探しに中南米へ出かけ、入手ルートつくる人もいる。

そういう資金はどうしているのだろうかと心配になるけど、まずは国内のネットワークを育て (ぼくのしっているカフェの経営者には大体珈琲の師匠がいる)、まずはそれでできる範囲で味を充実させる。そして、珈琲以外のメニューでもファンを増やし、ある程度の元手をつくってから、釜をつくったり珈琲豆を手に入れるルート開拓に出かけたりしている様子。

そして忙しくてくたびれていても、翌日のお客さんのために、夜中に珈琲豆をローストしたりしている。もちろん、普段はそんな事をおくびにも出さない。のんびりと、何とも楽しそうに珈琲を淹れてくれる。でも、ちょっと暇そうなときに話しかけたりすると、それはそれは嬉しそうに、北海道で老後を楽しむ珈琲の師匠に会いに行ったことや、南米の小さな村で、想像していなかった美味しい珈琲豆に出会ったときの物語りを話してくれる。

これも自慢じゃないけど、カフェの経営について、ぼくはほとんど何も知らない。でも、個人でカフェを始める人には、意外とシャイ (= 人と話すのが苦手) な人の多いことは知っている。個人で始めた店が軌道にのるまでは非常にひまなようで、平日の午後にドアを開けたら、ビーチでつかう折りたたみベッドに寝っ転がってフィッツジェラルドなんか読んでたりして「あ、今日最初のお客さん」なんて言われたこともある。それがその内、店が流行って混み始めると、嬉しそうではあるのだけれどほとほとくたびれた顔をしている。

そのくたびれの原因は、たとえば雑誌で紹介されたりすると、遥か以前からの理解者 (そうは言わないんだけど) のような顔をして「マスターいる?」なんてお店の人と話したがる人が、幾何級数的に (= ものすごい勢いで) 増えるからだと勝手に推理している。もちろん、その場にいるぼくもくたびれ要因であることは間違いないけど、それは棚に上げておこう。

そんなシャイな人がお店を始め、それを10年以上店を続けたりしているのは、おそらく、この珈琲の味の正直さが大切な理由ではないかと、思い始めている。珈琲が好きな人たちには、何も話さなくても、ここでつくっている珈琲のうしろにある物語りが伝わる。たとえ今伝わらなくても、やがて伝わる時がやってくる。珈琲の味も、ひとつの表現なのである。その醍醐味を、彼らは知っているのかもしれない。そしてそれは、言うまでもなく珈琲に限った話ではない。

だからもし、あなたが何かをつくり出そうとしているのなら、そしてそれを手間ひまかけてつくったように見せようと手間ひまかけているのなら、さっさとそれを止めた方がいい。そして、良いものをつくるための本当の手間ひまに、あなたの貴重な時間を使う方が賢明と言うものだ。

そうすることで、あなたは、ささやかだけど代わりのきかない、貴重なものを手にすることができるかもしれない。ぼくの町で10年も20年もカフェを続けてきた人たちのように。