on outline processing, writing, and human activities for nature
職場へ向かう途中、たまに立ち寄るカフェのカウンターでエスプレッソを飲んでいたときのこと。
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カナダかアメリカの (でも南部じゃない) アクセントで英語を話す女性が2人、カウンター奥のお店の女性に声をかける。
カウンターの女性は、店をまかされているようで、他の店員 (たいがいはひとりか2人) に何かを教えている姿をよく見かける。少なくとも5年以上はここで働いているけど、注文と短いあいさつ以外は、会話したことがない。
大柄な方の女性が、もうひとりの顔を見ながら「彼女が、頭がいたいっていうの。頭痛薬を売ってるくすり屋さんを知らない?」
「知ってますよ。ここをまっすぐ行って、1階上がって、外に出たら左へ行くと大きなくすり屋さんがありますよ」カウンターの人が英語を話すのを初めて聞いた。普通に日本語のときと変わらない感じでつづける。「そこなら頭痛薬があるはず」
「それは地階にあるの?それとも1階?」
「1階です。階段を上るんです」
「ありがとう。ほんとによかった」少し表情を緩めながら大柄な女性は、カウンターに一歩近づきながら「そう言えば、きのうのカプチーノ、美味しかった。そのお礼も言いたかった。今もオーダーできればいいんでしょうけど、さっきホテルで珈琲を飲んだばかりで..」程よいタイミングでカウンターの人は言葉をさえぎって
「いえいえ。カプチーノは頭痛が治ってからお願いします」と笑うと、カナダかアメリカの2人もいっしょに笑う。
そして、カウンターそばの椅子に置いた荷物を肩にかけながら「Arigato」と不慣れなお辞儀をした。カウンターの人は日本人的にどぎまぎしながら、日本人的にお辞儀する。
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こういったやりとりを日本語にすると少し気障ったらしくなるのは (がんばって気障にならないよう書いたつもりだけど)、日本語的なやりとりではないからだと思う。ここに書いたような風景は、やはりとても英語的なやりとりかなと、ぼくはずっと感じている。さいごの「Arigato」も含めて。
そしてこの英語的やりとりを、日本の人が、英語の国から来た人たちと自然にやっている風景を日本で見かけると、ほんの少し嬉しくなる。
ちがう文化を理解することの難しさは、言うまでもない。でも、自分の国で、他の国から来た人の慣れ親しんだあいさつや小さなやりとりを少しだけ楽しませてあげるような風景が普通になることは、ちがう文化を理解する大切な一歩ではないかと思ったりする。
もちろん、みんながこうしなければいけないという気持ちでは、ないのだけれど。