gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


初代 MacBook Air

 値段なんてどうでもよくて、ある物を手に入れて使ってやると覚悟が決まる瞬間があります。物欲の覚悟の階層性?があがる瞬間です。これがいいことか悪いことかと訊かれると、いいことではない気もしますが、なんだか自分のアイデンティティに関わっている感覚もあります。

 初代 MacBook Air がそうでした。たしか依頼原稿 (本の分担執筆でした) をどうにも書くことができなくて、止むに止まれず職場そばのカフェへ行ったときでした。

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 原稿のことで頭がいっぱいだったので、落ち着いて文章が書けそうな、店の奥へ行きました。その一番奥のテーブルでは、たぶんデザイナーだと思うのですが、何だか楽しそうにスーツ姿の人に向かって初代 Air の画面を見せながらプレゼンしている最中でした。

 そのデザイナーは、右手に Air をのせ、左手で画面を指差したりしながら、まぁ嬉しそうに、自分のデザインしたお皿か何かがいかにいいものか、語っていました。その話しを聞くスーツの人も、紅茶のとなりに置いたケーキを食べながら、なるほどねって感じで笑っていました。

 話し終わって満足気なデザイナーは、その Air を無造作に閉じて、テーブルの端、紅茶カップ傍に置きました。スケッチブックのような薄さと、テーブルから少し浮き上がって見えるような曲線のフォルム。これを目にした瞬間、ぼくはこのコンピュータを手に入れて使うんだと心に決めました。

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 その頃、ぼくは一時的に Mac を離れて Windows PC を使っていました。今は状況が少し変わったと思いますが、当時は Windows ばかりで、仕事の便利さからすれば PC を使ってる方が効率もよかったからです。古くからの Mac ユーザーの皆さんは、このあたりの苦労をよくご存知ですね。まめに情報を調べるのは苦手だったので、初代 Air のことは、名前すら知りませんでした。

 でも、片手にのった Air を無造作に閉じる動きを見た瞬間から、そんなことはどうでもよくなりました。PC を使っている3年のあいだにたまった仕事のファイルをどうするかも、どうでもよくなりました。使い勝手やスペックを Google したりしませんでした。その必要を感じなかったからです。

 第2世代以降のモデルとちがい、初代 Air はパフォーマンス・コストの悪い Mac として有名だったようです。遅かったり、記憶容量が小さかったり、すぐに熱をもったり、放熱のためのファンの音がうるさかったり。

 使い始めてそういった短所らしきことには気づきましたが、ちっとも後悔しませんでした。そんなことも、どうでも良かったのです。OS は Snow Leopard になったばかりだったと思います。使ってみて、OS やアプリケーションの使いやすさに感心しましたが (PC を使い始める前、最後の Mac はチタニウムの PowerBook G4 で OS9 でした。ぼくはこの OS も好きでした。懐かしいですね)、それもどちらかというと小さいことでした。

 初代 MacBook Air というハードウェアのデザインから伝わってくるメッセージと言えばいいのでしょうか、これを生み出した人たちの思い入れと言えばいいのでしょうか、それを見るだけで、それを実際に手にして使うだけで、ぼくは充分に満足していたことを覚えています。

 同じようなことは、実はそれほど多くありません。少し事情がちがうのですが、旧い Mini という自動車くらいでしょうか。実用的な工業製品でも、そのデザインそのものとそれが表現している機能みたいなものが、それを使って自分の生活を楽しもうという覚悟を一気に高めてくれることを、ぼくは初代 Air を通して学んだと思います。

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 残念ながら初代 Air は、もうばらばらになってしまいました。物理的にばらばらになってしまいました。でもうまく言えないんですが、日々の生活の中で、少なからずエネルギーをあたえてくれる存在でしたし、今も初代 Air には、道具以上の存在感を感じています。

 だからといって、そのばらばらの Air を一生大事にとっておきたいとも、実は思っていません。だって、道具なのですから。その思い出を、一生の宝物にしたいとも思っていません。道具なのですから。でも初代 Air のことを思い出すと、元気が1mm 増すことに変わりありません。

 彼に出会えて、ほんとうによかったと思っています。