gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


笑顔のための道具

大学の生物学科 (ぼくが出た大学では、生物学類という少し変わった名前で呼ばれている) の同窓生とは、メーリングリストで、たまにやりとりしている。そのメーリングリストができて、20年は経つだろうか。

講義へ行かずに山でサルを追いかけてばかりいたぼくにとって、そして文化祭や同期の集まりが苦手で、ほとんど参加しなかったぼくにとって、知らない人に近いメンバーが多いのだけれど、その中に4人だけ、英語の best friends のような存在がいる。

日本語で「親友」と書くと、少し物足りないというか、ちがう感じがする。

ぼくの友人になるくらいなので、一緒にどこかへ出かけるとか、頻繁に会うといった友だち活動?をしなくてもよい人たち (つき合いが悪いこと、この上なしと言われる)。たとえば2年会わなくても、きのうまで会っていたかのように会話が始まり、明日会えるかのように「じゃぁ」と言って分かれ、それでも、彼らのことがいつも頭にある感じ。

4人と書いたけれど、その内のひとりは、大学院を出て数年後に病気で亡くなったので (最後は石垣島にある農水省の研究機関で働いていた)、本当は3人。でも、その死んでしまった彼も、やはりぼくの心の中では、ひとりとして数えている。

その4人は、ぼくに向かってたまに「お前を人間社会に繋げておくのが、自分の役割のひとつ」と言っていた。これは、若者にありがちの大げさな言い方で、今振り返ると、ぼく自身はそんなに浮世離れしている訳でも、反社会的でもなかった。

ただ、たしかに大学の講義にはほぼ出席しなかったし、成績なんてどうでもよかった。そして、友だち活動なんてどうでもいいと、漠然とした怒りにも似た気持ちで考えていて (若かったですね)、彼らはそれを大きく受け止めてくれていたような気がする。

4人とも、性格や価値観もまったくちがっていたし、よく議論になってたがいに譲らず、気がつくと朝になってたということもあった。そんなにちがう4人だけれど、高校の教員になったひとりをのぞいた3人は、生物学の研究を職業にするようになったことを考えると、(生物の教員になったひとりも含め) 生物学に携わりたいという大まかな共通点は、あったのだと思う。

そして、この6月のはじめ。その4人のひとり、TQ の奥さんが、病気で亡くなった。

彼らしく、ぼくらには連絡もなかった。訃報を聞いたのは、同窓生のメーリングリスト。TQ が面倒をみている学生が、たまたまある同窓生の大学実習に参加している最中、大学からの事務連絡を見て、気を利かせて教えてくれたそうだ。

その同窓生から慌てた感じのメールが届いたのは、告別式当日の朝8時。通夜は、その前日に終わっていた。

おっさんになっても、友だち活動以上にこういった式は苦手で、正直に書くと、そのときも参列するかどうかかなり迷ったのだけれど、行っておきたいという気持ちを大事にすることにした。

ただ、そう言いながらも慌ててスーツを探したり、玄関の靴置き場の奥に眠っていた黒いリーガルのカビをとったりしているうちに、なんども「やっぱりやめよう」という気持ちが起こったりした。

ぼくはお寺で生まれ育ったにも関わらずというか、だからこそ、こういった場でお金をいくら払うのかとか、包んだ紙には何と書くのか、それをどのタイミングで相手に渡すのかとかはほとんど知らず (正確には記憶の宮殿から delete した)、そんなことを調べたり考えたりしてるだけで、嫌になってしまう。

最低限のかっこうだけ整えて (でも黒い靴下は見つからなかった) 何とか式場についたときも、葬儀場で働いている方の場馴れしたような会場アナウンスをきいて (場慣れしてるのは当たり前ですね)、すぐに帰りたい気持ちになってしまった (ごめんなさい)。

(葬儀場スタッフの方たちは、遺族やその友人への心遣いからそういった話し方をされているのだと思います。それを上のように感じてしまうのは、ぼくの心持ちの問題)

ところが式になって、その気持ちが少し変わり始める。

TQ の奥さんの名前は Y さん。その Y さんの闘病生活は8年あまり。

高校生になった息子 TP くんは、彼の人生の半分の時間を、母親の Y さんと一緒に病気と闘いながら過ごしたことを想像すると、胸が痛んだ。

その TP くんの、飾りない率直な、ママへのおくる言葉が胸に響いた。会場に流れた音楽の多くは、Y さんの合唱部時代の友人たちが、会場で歌ってくだったものだった。

そして最後に、TQ のあいさつ。

ぼくの10倍くらい、人とちがうことをすることが好きな TQ のあいさつは、実に彼らしい言葉で、分かりやすいようで難解、それでいながら、本当の意味の気遣いが何かを教えてくれるようなものだった。

Agere contra という言葉が何度か出てきた。

たぶんカソリックの言葉で、初めて聞いたからかんちがいしてるかも知れないけれど、相手に対してまずは安易に同意しない、あるいは議論することを惜しまない、という意味のように聞こえた。

彼にとって Y さんは、そういう生き方をする TQ の最大の理解者であり、かつ、自分以上にそういった生き方をとおした人である。だからこそ自分は、これからも妥協しない人生をおくって行きたい。(そして、あなたたちも..) というメッセージのように感じた。

式を終えて、職場へ向かう電車の中で、そういった式のようすを、同窓生のメーリングリストにも短くこう書いた (急だったから、ぼく以外の同窓生は、参列できない人がほとんどだった)。

「式に出てよかったと思っていますし、よい式でした」

そして、その翌日。お悔やみのことばが、たくさん投函されていたメーリングリストに、TQ からお礼のメッセージが届いた。

「病気になってから、意図的に無理をして、大好きな北欧やスコットランドに息子ともども旅をし..(中略)..などなど、濃密な経験をしました。だから、やり残し感はあまりありません」

式場の待合室のような部屋に飾ってあった、たくさんの写真の風景の記憶がよみがえる。北欧の大きな自然や古い町にいる Y さんや TQ、そして TP くん (彼の名前は、たしかノルウェーの言葉からもらったもの)。

そして、彼の自宅で撮ったらしい一枚の写真では、ベッドで横になっている Y さんは酸素マスク (?) をつけていたけれど、本当に楽しそうに微笑んでいた。そのベッドを囲んだ TQ と TP くんの笑顔も、強い人だからこそできる、本物の笑顔だと感じた。

言うまでもなく、人はとても弱い存在である。でも、それを知りながら、仲間に向かって心からの笑顔を見せられる人ほど強い存在もいない。どんなことになっても生きてみよう。最後まで諦めないでいよう。そう覚悟すると、人生はとても豊かになる。

GTD やライフハックといったぼくたちの生活を助ける手法や道具は、こういう人たちにこそ役立つものであるべきではないか。たとえば、長く病気とたたかう人たちの生活を支え、その笑顔を生み出す手助けになるものではないだろうか。

この経験をとおして、改めてぼくは、そう強く思うようになった。