いろいろないきさつがあって、高校2年から3年にまたがる1年間、新聞配達のアルバイトをしていた。それは、家庭の事情なんていう、真摯な経緯からではない。
そのとき学んだのは、残念ながら労働の大切さなどではなく、朝の景色がどれくらい胸にしみるかってことと、冬の寒さが、なんて言えばいいのか、前に進もうとするエネルギーにもなるってことだ。
だから、この時期の風を感じるとちょっと元気になる。だから、どの季節が好きですかと聞かれたら、冬のはじまりと答えるだろうし、早起きは楽しいですかとたずねられたら、そうだと言うしかない。
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そうして得たエネルギーとお金を、当時は受験のための「勉強」を拒否することと (受験勉強しないとか高校に行かないといった、何もしないことにもかなりのエネルギーが必要だった)、10%くらいしか理解できなかったような専門書や科学関係の雑誌を、買ったり眺めたりすることに使っていた。
たとえば、『解析概論』や「科学」、「遺伝」に「Scientific American」。当時はしっかり読んでいるつもりだったが、読むだけでは科学にならないことも分かっていた。科学に参加すると決めたつもりだったが、長い歴史と数え切れない人々の営みがつくりだした世界の深淵を垣間見ては、本当にそこに入るか入らないか、入り口あたりでウロウロすることに、たくさんの時間とエネルギーを使っていた。科学という世界は、それくらいに大きくて深く、そして、聳えているように感じた。
今のぼくが高校生の彼に会うとしたら、科学は君が考えるようにすばらしい活動だけれど、君が考えるほどに仰々しいものではないと、まず伝えるだろう。誰もが自分のできる範囲で自由に参加できる、オープンな活動だと話すだろう。だから今すぐにでも始めなさいと、肩を叩くだろう。よくそう考える。
でもちょっと考えて、また意見を変える。やっぱり、そのアドバイスもまちがっている。彼は自分で覚悟を決めて、自分で一歩踏み出す必要があったのだ。今思うと、大したことのない、小さな一歩なのだけれど。
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冬のはじまりの早朝、外から新聞配達の音が聞こえてくると、解析概論の、前置きもなく当然のように証明を始める簡潔で詩のような文章を思い出す。そしてそれもまた、前に進むエネルギーになっている気がする。
だから高校生の頃のウロウロも、まあ無駄じゃなかったのだと、思うことにしている。
(November 14, 2015)