問い
ぼくは「社会」に興味がある。人に限らず、広く動物たちのつくる社会に興味がある。とくにおもしろいと思うのは、鳥や哺乳類のような、脊椎動物と呼ばれる生きものたちの社会。
それは、生まれたときにはある程度平等な社会で、似た形に生れた子どもたちが仲間の中で成長しながら、やがてちがう役割を担うようになる社会。そして、集団全体としてただの個体の集まりとはちがう、新しい機能をもつようになる社会。
だれかが全体を見通した設計図をつくった訳でもないのに、そんなダイナミクスが自然に生まれる。多くの人がイメージするシンプルな「平等」とは大きくちがうし、かといって、ものすごく効率的なわけでもない。
でもそこには、大切な何かがある。そしてそれは、社会という現象だけに限らず、この宇宙全体の大切な何かにも関係している気がする。その何かを、知りたい。
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少し漠然としているこの問いは、高校時代に授業や部活動、そして友だち活動 (?) をさぼりながら (つまり、ひとりでぶらぶらしながら)、自分が何をやりたいのか散々考えてた頃にたどりついた、問いのひとつ。
もちろんその頃は、こんな風には書けなかったし、どこかで読んだ本の受け売りの部分も大きかったはず。
この問いを手にしたときには、やや興奮気味に、友人や先生に何度か力説したけど、あまり共鳴されることはなかったので (夢をもつのはいいことだ、という感じでは理解してくれた)、やがてだれにも話さないことにした。
でも、この謎解きができる大学へ進もうと心に決めて、かなりの強運が3つくらい重なって (あまり勉強しませんでした..)、生態学と呼ばれる分野に取り組む研究者のいる大学に入学した。
島根
話はすごく飛んで、3年前の初夏。サシバというタカの調査のため、島根に半月滞在した。これは、田んぼにくらす生きものたちを守ろうという研究の一部で、動物社会の研究とは直接関係しない野外調査である。
サシバは、ぼくが見る限りおっとりしたタカで、田んぼのカエルやバッタなどが出てくるのをじーっと (= ぼーっと) 電柱や木の枝で待ちつづけ、おもむろに地面へ飛び降り、のっそりとその生きものをワシヅカミにする。こんなにのんびりしたタカが、よく今まで生きてこれたもんだと、地球の懐の広さをしみじみ感じることも多い。
このサシバは、田んぼのカエルやバッタがいなくなったりすると、その場所で子育てできない。農業という人の生業 (なりわい)、あるいは文化と呼ぶべきか、人の営みと一緒に千年か二千年くらい暮らしてきた生きもののシンボル的存在である。
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島根には、美しい川がたくさんある。白い岩に強くて透明な流れがぶつかり、しぶきがあがる。そういう川が、豊かな森の下、とおくに見える。ゴウという音がこだまする。その流れを聞きながら、渓谷沿いに車で移動すると、点々と島のように集落がある。
サシバの好みそうな、小さな田んぼや雑木林は、その集落を取り囲むように広がっているのだが、予想していたよりもたくさんの田んぼが、もう田んぼでは無くなっていた。稲作の場所では、なくなっていた。
こういった捨てられた田んぼは、数年のあいだにスゲやヨシ、ススキのような丈の高い草に覆われる。耕作をやめて10年以上たった田んぼは、早い場所では小さな森になったり、緑深い湿原になったりする。
もちろんぼくは、湿原やススキの草原も好きだけど、サシバのような田んぼに暮らす生きものにとって、この耕作放棄は大きな問題になるかも知れない。そのリスクの大きさを予測するのが、この研究の大きな目的のひとつである。
森のトンネルの向こう
調査を始めて、たしか5日目。データ集めが軌道に乗り始めた頃。その日、2番目に訪れた谷は、それまで調べた中でも捨てられた田んぼの割合が一番大きくて、何キロものあいだ、ヨシで覆われた田んぼや森にまで育った田んぼが、現れたり消えたりした。
クズとササに覆われた廃屋を右手に見ながら、この谷にはもう田んぼはないかなという諦めが頭をよぎり始めたところで、道が2つに分かれ、さらに細くなる。まだ行けそうだったけど念のために車をそこに停めて、坂が急な方の道を登るとすぐにまた森に入り、坂の終わりで森が途切れる。
その森の脇に、農家が1軒たっていた。そして、そこから先がまるで別世界だった。見渡せる範囲には一面、ほんとに一面、鏡のように輝く田植えしたばかりの田んぼが広がっていた。
半分は森に囲まれ、残りの半分は遥か下の谷を展望できる崖になっている。そこから見下ろす谷の沢からは、とめどもなく流れる水の音と、カジカガエルの透明な声が聞こえていた。
ていねいに刈り揃えられた畦には、カジカガエルとは別のカエル、モリアオガエルの卵塊が数100個 (あとで数えたら200ちょっとだった)。日本海に面した雪の多い地方は、どこも水が豊かなせいもあり、モリアオガエルのような淡水の生きものがとても多い。
ちょうど産卵の季節らしく、銀色に光る田んぼの中からも、丸い「ココココ..」という声があちこちから重なるように聞こえていた。カジカガエルの声と沢の音をバックグラウンドに。
おじいさんとおばあさんの田んぼ
田んぼの持ち主は、当時93歳のおじいさんと91歳のおばあさんの2人だった。ゆっくり話できなかったけど、おじいさんの寡黙さと、おばあさんのはじける明るさが印象的だった。ほとんど直角に曲がった腰が、農家としての勲章のように見えた。
2人の暮らす深いワインレッド色をした屋根の正面に見える小さなスギ林では、サシバが子育てをしていた。このスギ林もたぶん2人の林で、もしかすると2人が植えた木。
そこで、2−3時間くらいかけてあらかじめ決めておいた調査を済ませ、別の調査地へ向かった。調査全体の目的は、広い範囲でデータをとることだったから、1か所に長居はできない。
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それから10日。いろんなことがあったけれど、例によって何とか欲しいと思っていたデータがほぼ揃った頃、もう一度、おじいさんとおばあさんの田んぼに戻った。
調査最後の日に、半日だけでいいから、サシバが食べものを採る行動を記録しようと考え、一番カエルの多いこの田んぼに戻ってきた。初歩的な行動観察記録はそのまま論文に結びつくデータになる可能性は小さいけど、新しい視点をあたえてくれることが多い..。
そういう理由をつけたりしたけど、本心はやはり、あの2人の顔が見たかったからというのは、ここだけの話し。
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日の出のころ、田んぼに着いた。予想どおり、おじいさんはもう野良仕事していて、畦の草を鍬で削っていた。姿は見えなかったけど、おばあさんはたぶん裏の畑で何かをしているようで、そちらからたまに音が聞こえてきた。
削りとった草をそのままにしておくと、また根をのばして復活することが多い。だからおじいさんは、以前に刈りとって乾燥させた枯れ草の上に、削った草をのせる。黙々と草を削っては、枯れ草の上にのせる。曲がった腰には少し負担なのか、10分に1回くらい腰を伸ばしながら、空を見上げる。鍬を杖代わりにして。
それから3時間半。おじいさんは、笑っているわけでもないけど、眉間にしわ寄せながら肩に力入れて鍬を振り下ろすなんて、もちろんしない。最小限の動きと力で、草を削って削って削って、ひょいと運ぶ。その繰り返し。空を見上げるときには、心の中で口笛を吹いているように見えた。
うしろで音がしたので振り返ると、おばあさんが、玄関の格子戸をガラッと開け「ちょっと隣まで行ってくるねー」とこちらに手を振りながら、坂を走るように降りていった。
何かを積んだベビーカーも、おばあさんと一緒に跳ねるように坂を下っていった。「ちょっと隣」って言ったって1キロくらい離れてるし、あいだには大きな沢があるのに、そんなことはお構いなし。
無名の者たちの社会
その2人の姿を横目で見るうちに、何だか、胸がいっぱいになってしまった。90歳を超えても、周囲の人たちが田んぼを捨て続けても、心の口笛吹きながら3時間半、畦の草を削りつづけることができる。スキップするように坂道を下ることもできる。
この逞しさはどこから来るのだろう。たぶん、彼らが生活をしながら続けてきた小さな努力の繰り返しと、それを楽しむ大きな覚悟と、そして稲やほかの作物を育てる才能がなければ、こんなことなんてできないのではないか。その奇跡のような普通の日常があったからこそ、彼らは今も、田んぼをつくっているのだ。
彼らがいなくなったとしても、ウェブで話題になることもなければ、テレビやラジオのニュースにもならないだろう。そして、彼らはそんなことを望んでもいない。隣人の朝ごはんのために、畑で採れた野菜を届ける方がずっと大切なのだ。
高度経済成長の初期、たとえば1960年頃の日本の農業就業人口は 1,450 万人。それが50年後の2010年には5分の1の 260 万人にまで減少している [1]。しかも、その6割は、60歳以上のいわゆる高齢者。あと10年から30年のあいだに、農業人口は半分になる可能性が高い、と言われている。
たぶん二千年以上前に始まった日本の田んぼは、いろんな歴史の中をとおりながら、歴史には名前が残らなかったけれど、このおじいさんやおばあさんのような、本当の意味で強い人たちが支えてきたのではないか、という思いで胸がいっぱいになってしまった。
そしてそれは、田んぼに限った話ではないだろう。人の社会というのは、そういう存在がつくっているのだ。ぼくが理解したいと思っているのは、少しでも本質にせまりたいのは、そういう社会だ。
島根で出会った、このおじいさんとおばあさん、そして2人がつくってきた田んぼを思い出すと、高校の頃にひとりでぶらぶらしながら、生きものたちがつくる社会の謎を解き明かしたいと思い至ったときの、あのドキドキした気持ちが蘇る。
この問いを解くために自分の人生をかけてきた、と言えればカッコイイけど、残念ながら今のぼくは胸を張ってそうは言えない。目の前の仕事に押し流され続けること、限りなし (笑)。でも、黙って諦める気持ちも、今のところ0%。
ぼくは「社会」に興味がある。