gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


遊んでるようなもんだから #2

日本酒好きが高じて、自分で日本酒をつくりたいがために、祖父母の田んぼを譲り受けて農家になり、春から初秋は田んぼで稲を育て、秋半ばから冬のあいだは日本酒をつくることを仕事にした人に出会った。

年齢はたぶん30代半ばか後半。日本酒にかぎらずお酒について語りはじめるととまらない人で、すごいと思ったのは、たくさんの日本酒を自分の舌で味わっているだけでなく、その味の評価や感想を自分のことばで話せること。

となりにいた同僚おっさん(でも若くてかっこいい)が「味わう土台のひとつは記憶力、つまり出会った味を記憶しておく力だって読んだことがある」と言ってたけど、ほんとそのとおりと思うような味の記憶力をもつ人だと感じた。

おもしろいと思ったのは、その記憶の鍵に「感銘を受けた味」を使っていたこと。

過去に感銘を受けた味がいくつかあり、それを目盛りにして「この X という酒は A という酒に近い味だけど、B と C の味がそれぞれ少しずつ入っているように俺には感じます。だから…という口ざわりでありながら…という味わいが生まれているんじゃないかと思ってますがどうです? こっちの Y は、表面的には X に似ているのだけど..」という形で話しが進む。

その口調が慎重で、確信もってるけど謙虚という印象だった。

そう感じた理由のひとつは、そのお酒を飲んだことのない相手に対してでも、その味の良さを伝えたいという誠意が伝わってきたこと。シェアの精神と言えばいいだろうか。

もうひとつは、相手に同意をもとめていないけれど、いわゆる言いっ放しでもないこと。これを知ってればお酒がもう少し楽しくなるかもしれませんよ、という程よいお節介精神。

つまり、話し相手との距離のとり方、その距離を踏まえたメッセージの強さ加減が上手。自分の意見が相手の頭にどかどか入らないよう距離をとりながら、でも心には届くほどよい強さの言葉を選んでいるように感じた。

自分でつくることが好きなぼくとしては、つくりたい味を実現するプロセスを聞けたことも大きかった。

たとえば、稲の品種選びや(辛い酒に向いてる品種、甘い酒に向いてる品種、さっぱりした酒に向いてる品種のどれを育てるか)、その稲の育て方(窒素過多の土で育てると米のもちもち感が高くなるけど、酒の味はしつこくなる)、米の削り具合(精米歩合? 小さく削ればいいものでもない。品種によって米の中心にある空洞の位置とそのばらつきがちがう。この空洞まで削ってしまうとよくないらしい..)などなど。

そういった彼の実践を通して得た知識が、楽しそうに淡々と話す中に自然な形で織り込まれていた。話の途中で分からないところを訊くと、さらっと要点で応えてくれるのもうまかった。

そして最後に、「こんな風に語らずにひと言『酒を味わってください。言いたいことは味に込めてあります』って言えればほんとカッコいいと思うんですが、つい話しちゃうんですよね』と話す笑顔もよかった。

ぼくは、こうした解説的なお話をする人も、その分野を先に進めるために大切な役割を担っていると考えている。おいしい日本酒がそこにあることが大原則ではあるけど、それだけではおいしい日本酒の文化は育ちにくいし、その文化を繋げたいと思う人も増えにくのではないだろうか。

そして、この人も、米づくりや日本酒づくりのための生活を「遊んでいる」ように感じた。

ご存知のとおり、今の米づくりは楽してもうかる商売ではない。日本酒のための米の価格は、ご飯として食べる米よりも高いけれど、できあがるまでの手間暇、生産コストを考えると、むしろ食べる米よりもパフォーマンスコストは厳しいかなと、話しを聞いていて感じた。

にも関わらず、彼は奥さんといっしょに米を育て日本酒をつくる生活を遊んでいるように見える。

それがなぜなのかにも、興味をもっている。その姿は、花巻の農家の人たちの姿とも似ていると考えている。共通する何かがあると感じている。

彼らが遊んでいるように生き生きして見える理由は、自分が望むものを自分でつくってきたという経験や、その過程で遭遇する大小さまざまな問いへの答えを自分で見つけてきたという経験なのかなと予想している。

他人がなんと言おうと、自分が満足できるものをつくったんだという経験。それは人生数回の大きなイベントではなく、毎年毎年、毎日毎日、失敗したり成功したりを生活の中で積み重ねられたもの。

そう考えると、そうした遊び心を育てる経験は、農家の人たちの生活に限定されたものではないと考えられるし、いわゆる創作活動をしている人たち、たとえば有名なデザイナーやプログラマー、建築家や芸術家、著述家や作家、料理人などに限られたものでないことも想像できる。

ただし、実際に目に見えるものをつくる生活の方が、努力せず自然な形でそういう経験を繰り返しやすいものかも知れない。なぜそうなのか。そうでない生活とどこがちがうのかが、大切な問題なのかなと考えている。

この人の暮らす地域には、他にも遊んでるような大人がたくさんいる。そういう場所に滞在したあと、いつも心の中に清々しさが残る。

清々しさの理由は、彼女や彼との出会いの中で垣間見た、ある種の潔さではないかと考えている。

その潔さとは、自分は自分のために生きるんだという大きなスケールの覚悟、そうやって暮らすしかできないという開き直りみたいなものじゃないかと言うのが、今のぼくのヘナチョコ仮説。