いいなあと思う文章には、それを書いている人のはっきりとした世界観を感じることが多い。成熟した世界観というべきか。
それはテーマに関係ない。ガジェットやアプリの紹介記事でもアウトライナーの解説でも、水と水の出会うところを讃えた詩でも老人と少年と大きな海への尊敬の物語でも、そして、利他性進化の論文でも生態系の resilience を論じた本でも、その背景になる世界観が伝わってくる文章に出会ったとき、ここでしか得られない何かが詰まっている、と感じることが多い。
学生時代に教わった生態学の研究者たちは、それを「哲学」と呼んでいた。
「哲学をもった研究者にならんといかん」
もちろんこれは、せまい意味の哲学と同じではないし、哲学の本を読みつづけるだけで世界観を育てられないことは、断言できる。
世界観を大切にしてきた人は、新しい問題に出会ったとき、実にその人らしいやり方で解決し、場合によっては失敗し、でもその人ならではの形で前へと進む。
そして、人生の大きな醍醐味は、ちがう世界観を育ててきた者どうしが、それをぶつけあうときだ。馴れ合いなどない。軽い言葉は意味をなさない。知識共有とは言い難い。でも、戦いとはちがう。
そうして彼と彼女らは、その世界観をさらに柔軟で強靭なものにする。
人間性の resilience。成熟した世界観はその前提条件、というのがぼくの仮説。