on outline processing, writing, and human activities for nature
Millions long for immortality who don't know what to do with themselves on a rainy Sunday afternoon (永遠の命を望む人は地球上にあふれている。でも、そんな人にかぎって雨の日曜の午後、何をやったらいいのか分かってない).
これは、よく読んでいた英語のブログで何度か見かけた言葉です。Susan Ertz という英国作家によるもので、思い出すことの多いセンテンス。
ぼくたち人間が不老不死を願うことが多いのは、たぶん幸せになりたいから。でも、仮に永遠の命を手に入れたとしても、幸せになるとは限らない。
日々の生活に幸せを見つけている人は、雨の日曜の午後にも心待ちにする愉しみがある。だからあなたも、そんな生活を送ってみてはどうだろう。
Susan Ertz の言葉は、そういう日々の暮らし方を提案しているのだと、ぼくは理解しています。
*
ぼくたちは小さい頃から、雨がささやかな楽しみを台無しにすると教わってきました。映画やテレビのドラマにも、雨でがっかりするシーンはたくさん出てきます。
雨が降ると、たとえばせっかくの山歩きでも、重くて動きにくい雨具を着なければいけません。歩きながら見えるものはフードの水滴ばかり、聞こえてくるのもフードを叩く雨の音だけ。だからこそ、雨の週末を楽しむには、そんながっかりを小さくする仕掛けが必要になります。
そして、その仕掛けづくりに大切な役割を果たすのが、創造力 (想像力ではありません) ではないかと、ぼくは考えています。
創造力は、人々の心を震わせる詩や物語を書いたり、絵を描いたりするためだけの道具ではなく、自分を上機嫌にしたり、小さな幸福感をつくるためにも大切な役割を担っていると予想している訳です。
*
山歩きの例に戻りましょう。雨の山歩きを楽しみに変える手軽な方法として、かっこいいレインウェアを買ってみたらどうでしょう。あなたの嫌いな紺色の重い雨合羽ではなく、大好きな色で重さは5分の1の動きやすさ考えられたデザイン。そんな装備を揃えただけで、雨の日曜が待ち遠しくなるかも。
やたらにお金を使うのはかっこ悪い気もします。でも、いろんな条件を予想して装備を買い揃える作業も、ぼくは立派な創作活動と感じています。
お金で解決するのはイヤというあなたは、そうですね、たとえば雨の中でも快適に地面に座って休めるための、小さなマットを作るというのはどうでしょう。 厚さ1センチくらいのウレタンマットを40センチ x 30センチくらいの長方形に切り (もっとかっこいい複雑な形に切るのもかんたんです)、少し太いゴムバンドでゆるく短辺の両方を繋ぐようにつければできあがり。
マットとゴムバンドのあいだに体を入れ、マットをおしりに敷くように座れば、雨の森の中で地面でも冷たくありません。昔買った雨合羽の色は今ひとつかも知れませんが、お気に入りの場所にどっかり座り、樹冠から落ちてくる雨粒を、淹れたばかりの暖かい珈琲を飲みながら眺めるのは、なかなかのものです。
*
雨の日を室内で過ごす場合も考えてみましょう。たとえば、雨を避けて自分の部屋にいる時間が増えそうなら、雨の雰囲気に合う好きな曲を探しておくのはどうでしょう。そして、窓から見える、お気に入りの雨の風景を探してみるのもいいかなと思います。好きな雨の曲を聴きながら、好きな雨の風景を愉しむのです。
ぼくは、部屋から見えるとなりの屋根や森の木々の葉に、雨が当たって跳ね返り、屋根や森の輪郭が白くけぶる様子を見るのが、結構気に入っています。空から長い距離を落ちてくる水滴。それが屋根や森の木にぶつかって弾ける瞬間を考えると少しワクワクするのは、ぼくだけでしょうか。
*
それでも、ぼくたちはどうしても、雨の日の悪い側面を見てしまいます。濡れると寒いし、濡れた服は着心地が悪い。雨が降り始めると、そういうネガティブな経験をすぐ思い浮かべられます。そうなってしまうのは、出来事のネガティブな部分を見てしまいやすい心の仕組みを、ぼくたち人間が持っているからだと、理解しています。もちろん、だれが悪いわけでもありません。
ですから、そういう心とつきあいながら無理せず雨を楽むには、覚悟が大切になります。雨の日曜にも、鼻歌を歌いながら暮らすのだという強い決心です。
この覚悟からぼく自身が逃げていることに気づいたのは、アランというフランスの高校で哲学を教えていた人の本を読んだ時でした。アランの印象的な文章をきっかけに読んだデカルトの『情念論』は、まさにそういう課題を哲学した17世紀の本だと感じました。
*
そうしたシチメンドクサイ本以外に、身近な人たちから学んだこともあります。
たとえば学生時代、ある島の原生林を訪れたときに出会ったYさん。日本中が晴れていても、そこだけ雨が降るような雲霧帯の巨木がつくる原生林には、高さ何10メートルもの大きな崖もたくさんあります。その原生林にベースキャンプを置きながら調査した数週間には、何度かのアクシデントもありました。
メンバーのひとりが道から落ちて怪我をして山を降りることになったり、小さな遠征調査の最中に道を見失いひと晩野宿したり (正確には登山道からもともと外れた調査ルートを移動していて、ルートの目印が分かりにくくてベースキャンプから離れた場所へ入ってしまいました)。アクシデントのたびに、リーダーのYさんは淡々とそして生き生きと、対策のプランをつくってくれました。
たとえば道を見失ったとき。山の端に沈みかけた陽の当たる場所に地図を広げて他のメンバー三人を呼び、ルートを間違えた可能性のあるポイントとそう考える理由、だから今はどこにいる可能性が高いのか、まず彼の案を説明しました。そして、ぼくたちの目を見つつ目と口角に笑みを心もち浮かべながら「だから、ここで野宿するのが一番」(この言葉を口にするのを、たぶんみんな少し恐れていました) と提案したあと、すかさず手持ちの食料と水を使った野営のプランと、それに必要な作業分担をこれまたひとりひとりの顔を見ながら提案しました。
水場は少し遠いけれど、この森の地面はやわらかくて暖かそうに見える落ち葉で覆われているし、何より平ら。Y さんの案が正しければ、ゆっくり眠っても明日の午前にはベースキャンプに戻ることができそう。これから自分の役割をこなしさえすれば、楽しい野営になりそうかな..。話を聞いているうちに、大きな山で道を見失い野宿することが、楽しいイベントに変わった瞬間の安心感は、今もよく覚えています。
アオバトの声が響く夕闇の中でお湯を沸かし、ささやかな食事を四人で分け合いながら、Y さんが話してくれたアフリカ山岳地帯に暮らすゾウやバッファロー、大らかなで逞しい人々の物語。ぼくたちのヘッドライトに照らされる、樹齢何百年、何千年という巨木の高い樹冠の隙間から時折星も見えました。
もちろん、こうしたYさんがつくり出した楽しさの背景には、彼の豊富な経験があったと思います。しかしそれを他の形で使うことはもっとかんたんなはず。たとえば、現状がいかに困難であるかをリアルに伝え、メンバー全員を絶望させることもできたかも知れません。しかし彼は、みんなを安心させるために、その知識や経験をフルに動員していたのだろうと、後年、自分が似た立場になったときに実感しました。Y さんにそれができたのは、どんなときも上機嫌な時間を過ごすのだという覚悟があったからではないかと、ぼくは予想しています。
*
ぼくたちの生活は、見方によっては絶望的、でも見方によってはそれほどでもない、場合によっては楽しいことこの上ない出来事の繰り返しなのだと、おっさんになった今、胸を張って言うことができます。
そうした出来事と真摯に向き合い、上機嫌な日々を送るために自分の創造力を生かしつづけるのだと決心する。そんな人こそが、雨の日曜の午後にやることを知っている人なのではないでしょうか。