on outline processing, writing, and human activities for nature
花巻のフィールドに、お気に入りのベーカリーがある。名前は「Gauche 2」あるいは「こなひきのゴーシュ」。
店の人が選んだ小麦粉など地元の素材を使い、毎朝パンを焼く。店の二人がデザインしたと思われる家に住み、その一部を食事もできるベーカリーにし、そこで稼いだお金で暮らしている(たぶん)。
二人でレイアウトした部屋に、自分たちの描いた絵を飾っている。開店して2−3時間でその日焼いたパンが売り切れることも多いけれど、量産して何倍も儲けるつもりはないように見える。
そうした姿がうらやましくて、いいなぁと話したら、使いこまれたシェフジャケット姿の彼はこう言った。
「いや、ぼくらは、遊びながら毎日暮らしてるようなもんだから」
これがきっかけで、「遊び」という言葉が気になっていることに改めて気づき、時間をかけて考えはじめた。今回はその途中報告。
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フィールドワークの隙間で考えてみたけど、ありきたりのことしか浮かばなかった。そこで少し形を変え、「遊んでいる」にしてみる。「遊び」という名詞より「遊ぶ」という動詞の方が、ゴーシュの言葉に近い気がしたから。
ついでに仕事という言葉を使わないで考えることにする。「遊んでいるとは、仕事していないこと」という言葉が足かせになっている気がしたから。
「仕事していない」という言葉のタガを外してあげれば、「遊んでいる」の別の姿がみえてくるんじゃないか。遊びについてのオオタキラジオさんの記事にも「仕事の反対が遊びなのではない」と書かれている。
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すると、「遊んでいる」とは人のことをあまり意識していない状態ではないか、というアイディアが浮かんだ。
少なくともぼくは、人のためにはあまり遊びたい気持ちになれないし、たとえば奥さんと約束して一緒に遊ぶことはあっても、奥さんのために、ぼくひとりが遊んだことがない。
つまり、遊ぶとは個人的なことであり、遊ぶためには必ずそこにその人自身が必要である。言い換えると、「遊んでいる」とは今を100%自分のために使っている状態である。
そしてここが大切なのだけど、「遊んでいる」には自分すら忘れる状態も含まれるのではないか。ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で眩暈と呼んだ状態が、これに近いのかなと想像している。未読なので勘違いしている可能性も高いけれど。
「遊んでいる」とは100%自分のために時間を使うことからはじまり、自分からさえ自由になった状態でもある。そして、いわゆる良い仕事は、作業に関わった人たちが「遊んでいる」状態から生まれることが多いのではないか。
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「遊んでいる」から生まれた良い仕事の分かりやすい例として、絵画や彫刻などの作品が最初に思い浮かぶ。
たとえばピカソの絵やムーアの彫刻のように多くの人の心を動かす作品は、彼らがそれをつくる最中に遊んでいたことを証するものではないか。
そう考えると、ゴーシュのパンや料理が他では出会えない味であることも、建物や店のレイアウトを見ただけで元気が出てくることも納得できる。
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では、どうすればぼくたちも「遊んでいる」状態を自分のしごとの中に増やすことができるのだろうか。今、何となく見えているヒントは、100%を目指さないこと。100%遊ぶために、自分の100%を出そうと思わないこと。
まずは見せかけでいいから、遊びはじめること。
たとえば鼻歌を口ずさんでみること。あるいは空を見上げてみること。
そしてだれも見てなければ、小さくスキップしてみること(笑)。