若くして病気で亡くなった友人の M が元気だったころ、彼が仲良くしていた画家のうちに連れていかれたことがある。四日市にある M のうちは評判のおいしい料理屋をやっていて、その画家は M が生まれる前からの常連客だったのだそうだ。この料理屋には、これまたたくさんの物語があり、ぼくはその話しをきくのが大好きだった。そしてようやく、M のうちをたずねたとき、彼はとっておきの人たちにぼくを会わせ、ゆっくり話しをする時間をとってくれた。
M の気持ちをくんでいたかどうか分からないけど、高校もいかずに絵の道を選んだというその人は、M とぼくに向かって、熱弁をふるってくれた。芸術とはいったい何なのか。多くの人がお金をかせぐために日々はたらいているなかで、のんびりと絵をかくということの意味について。彼がおそらく人生をかけて学んだことを、手を変え品を変え、いろんな例をあげて話してくれた。
絵でも彫刻でも、書道でも小説でも詩でも、よーしらんけど科学の論文でも。ひとつの作品の中で伝えたいことは、ひとつだけにせなあかん。そして、その云いたいことで、作品の初めから終わりまでを貫かんといかん。それができとるかかどうかが、本物かどうかの決定的なちがいや。
これは強烈だった。これこそ表現だと、ぼくは今でも考えている。この世界はメッセージにあふれている。無限のメッセージにあふれている。そしてそれらのメッセージは、変化しつづける。文章をかいたり絵をかいたりすることは、その中から特定のメッセージを選び、それを人に伝える作品をつくりだすことなのだ。
それ以来ぼくは、どんなものをつくるときにも、この心がまえを思いだすようにしている。そしてそれが、どれほど困難なことなのか、何度も思いしらされた。でもだからこそ、やり甲斐あるものだということも実感している。
(February 13, 2016)