ぼくの好きな旅というのは、一度に1メートルか2メートルしか行かないような旅である。立ちどまっては、またあらためて同じものをちがう角度からながめる旅である。ちょっと右か左に寄って休んでみる。するとすべての景色が一変する。そんなことがしばしばだ。ぼくにはその方が 100 キロ行くことよりもずっとすばらしい [1]。
何度も読みたい、と思う文章がある。ぼくが探しているのは、一生かけて読みつづけたい文章だということに気づいたのは、このアランの言葉に出会ったときだった。
一生かけて読みたいと思う文章には、何とおりもの景色が織り込まれている。たとえば、初めて出会った人であっても顔見知りとは区別せず、その人を前に進ませてくれる景色。すぐ次の場所へと去っていく人がいくら多くても、まあ、それもよし。
でも「少しまてよ。あれはいったいどうしてだ」と引き返してきてくれた人には、そして、少し角度を変える努力をしてくれた人には、別の景色が用意されている (やあやあ。また来てくれて、ありがとう)。
そういう文章は 100 もいらないし、10 でも十分すぎるし、ひとつでもかまわない。それをソラで言えるようになれば、もう外部記憶装置である紙やデジタルの本やページさえ必要ない、と真面目に考えている。
そして、もっとこだわっているのは、そういった文章を読むだけでなく、そういった文章を生きること。つまり、行動すること。
以前は、それをとても難しいことのように考えていた。でも、今は少しだけ自信をもって、こう言える。たぶん心配することはない。一生かけて読みたいと思う文章に出会っていれば、自然とそれはできるようになっている。