on outline processing, writing, and human activities for nature
大学時代からの友人に誘われ、一緒に霧ヶ峰へ行ってきた。
宿は標高1,700メートルあたりにあるクヌルプ・ヒュッテと言う山小屋。クヌルプはヘッセの小説に出てくる放浪の人の名前からとったらしい。山小屋の外見は、ヨーロッパの山岳地帯にある小さな宿のようなつくり。風呂やトイレもあり、いくつかの部屋がある。
念のために書いておくと、霧ヶ峰は長野県の中東部にある山の名前で、車山という別の名前もある。草地が緩やかないくつものピークを結ぶ広い範囲にわたって広がる日本ではたぶん珍しい植生。
この草地は、かつて屋根材を採る茅場として長いあいだ刈り取りと火入れなどが続けられた結果つくられた草地とされている。興味深いのは、火入れなどが行われなくなったあとも、広大な草地が森へと遷移せずに長く残っていること。卓越風と呼ばれる強い風が森をつくる高木の生長を抑えているからともされている。
水も豊かなようで、草原の中を流れるいくつもの沢には滔々と透明な水が流れ、八島ヶ原湿原などの高層湿原が散在する。かつて、ビーナスラインという大きな道路がこの湿原を通る計画があったらしい。しかし、多くの人たちの努力によって、道路は湿原から離れた場所を迂回する形に変更され、八島ヶ原湿原が無事に残ったエピソードは、小説にもなったそうだ。
クヌルプ・ヒュッテは、こうした草原や湿原の風景や生き物たちを楽しみにくる人たちの滞在場所としての役割を担っている様子。
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興味をもったのは、この山小屋の歴史。
山小屋が開かれたのは今から60年以上前の1958年。終戦から10年少し経った頃。多くの人が自分の車を持っていなかった時代。経済成長が始まって年が浅く、お金を稼ぎ自分たちの生活を支えることが、おそらく今よりも楽ではなかった時代。そして今以上に多くの人たちが東京や名古屋、大阪のような大都市に憧れていた時代。
クヌルプ・ヒュッテが今ここにあるということは、その時代から、こうした山小屋の経営を支えられるだけのたくさんの人が、霧ヶ峰の風景や自然を楽しむためにこの場所を訪れつづけている証し。
そして、決して人にやさしいと思えない場所に建物を立て、山小屋として経営を始めた人がいたことの徴でもある。彼や彼女はなぜ、山小屋を始めたのか。
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クヌルプ・ヒュッテは、宿なのだけれど宿以上の機能も担っていることは、小屋に入ってすぐ実感できる。
よく来ましたねと声をかけてくれる宿の人は、ぼくたちの泊まる部屋を案内したあとに、まぁまずはお茶でもどうぞと、大きなテーブルや薪ストーブのある場所に連れていかれる。
そして、ぼくたちと一緒に涼しい風を楽しみながら、このあたりの風景や生き物たちの近況を、淡々とでもうれしそうに話してくれる。
「ことしは7月に雨が多かったから、ニッコウキスゲ(鮮やかな黄色いユリのような花を咲かせる)が8月に入った今もたくさん咲いていますよ」とか、「アサギマダラ (渡りを行うことで有名なチョウ) は、例年通りやってきてますよ」と言ったお話し。
(アサギマダラというチョウは、ほんとのんびりしたチョウで人からほとんど逃げない。深くて透明で明るいブルーの翅をそばで眺めていると、ほんといつまでもあきない感じ)
出かけるときは雨具を忘れないで。晴れていても夕立がやってくることも多いのだからと、山に慣れない人にも、最低限の安全確保のための情報を与えてくれる。
朝出かける前には、のんびり散歩にきただけの人にも「**さん、今日はどこへ行く予定ですか」と、これまた楽しそうに話しかけて、一日のスケジュールを確認していた。
万が一遭難者が出た時には、そうした情報が遭難者の命を救う大切な鍵になるのかなと思ったりした。近くにある別の山小屋の人たちと一緒にまず小屋の人たちが遭難者の探索に出かけたときの話を、ゆうべ聞いたことを思い出す。
山小屋を開き、山小屋に来る人を受け入れながら、山小屋で食べていくことの誇りと社会への責任。
あぁ、自分のしごとをするってこういうことなんだなと、マイペースで楽しげに話す宿の人の姿を見ながら、しみじみ思ったりした。