4年前の春、風邪をこじらせて2週間以上寝込んだ。少し動くと熱があがってしまうので、横になっているしかなかった。ぼくにとって外を歩けないことは、風邪の症状よりもしんどいことだった。
それで、普段読まないけれど気にはなっていた本を、お気に入りの Kindle e-ink reader で読むことにした。
選んだのは『Chronicles of My Life』というドナルド・キーン (Donald Keene) の自伝 [1]。文学を学んだ人の英語に触れたかったこともあるが、文学を学ぶ意味を考えたかったことも、理由のひとつ。ぼくは本業が生態学なので、学校で基礎科学を教える意味ついてはさんざ考えてきたけれど、文学を生業にしている人がどう考えているのか、興味があった。
そして、彼がコロンビア大学に進学した頃のエピソードに、その答えのひとつがあった。
コロンビア大学は、当時の米国の大学の中で、必修科目が少ないことが特徴だったらしい。その数少ない必修の中に Humanities という講義があった。週4日の頻度で開かれるその講義で、受講者はホメロスからゲーテまで、文学や哲学の作品を週2−3冊のペースで読む。
講義を受けもつマーク・ファン・ドーレン (Mark van Doren) は、研究者であり詩人でもある。彼は授業ノートを決して使わず、あたかもその作品に初めて出会ったかのようにあつかい、授業の中で学生といっしょに考えを巡らせる。注解書や専門的な文学批評のテキストもほとんどつかわない。そして、それぞれが自分の力で作品を読み、それがなぜ「古典」であるのか、自分で考えることを教えてくれた。
何とうらやましい授業だろう。
人が人として大切にすべきことは何かを、体系的に学ぶ場があるなんて。そして、文学や哲学の古典のメッセージを、自分の手で読み取る方法を学ぶ場があるなんて。
人にとって大切なことのひとつは、文学や哲学、そして科学といった枠組みを超えた Humanities と呼ばれる体系を身につけ、それを武器に今、目の前で進んでいる人の営みを理解し、自分もそこに関わっていくことではないだろうか。自分の生活をとおして。
ファン・ドーレンのエピソードの中でドナルド・キーンは、こう続けている。
Insofar as I have been a success as a teacher of Japanese literature, it has been because I had a model in Mark van Doren.
私が日本文学の教師として成功しているとしたら、それは、マーク・ファン・ドーレンから目指すべき姿を学んだからです。
欧米の古典をとおして Humanities を学んだひとりが、ホラシウスやアリストテレスではなく、ヘーゲルやゲーテでもない、松尾芭蕉や近松門左衛門を専門のテーマに選んだことに、日本人として誇りを感じながら、それらの作品をほとんど知らずに暮らしてきた自分を少し反省した。
そしてこの頃から、日本の古典と呼ばれる作品を読み始めた。ほんの少しずつ。ぼくにとっては英語よりも遥かに時間のかかる作業であり、1割も分からないことが多いけれど、まあ趣味だから Okay ということにしている.. (笑)。
(January 8, 2016)