gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


人は地面から育った木のようである

2週間くらい前のたしか月曜日。大学へ行く途中の地下鉄に、アルベルト・ジャコメッティ Alberto Giacometti 展のポスターがぶらさがっていたのがきっかけで、先週末に奥さんと2人して国立新美術館へ行った。

ポスターを見た瞬間に、前から好きだった細長い立像の作家かなと思ったけれど、それを見た場所すら覚えていない。もともと、作家の名前を覚える気はあまりないし、作品のタイトルを見ないことも多い。なので、ふとあの絵や彫刻が見たいなぁと思っても、叶わないことが多い。

でも、それはそれでいいことにしている。

久しぶりの日比谷線を六本木駅でおりて、美術館に着いたのは11時すぎ。2階にある広めのカフェで美味しいベーグルサンドを食べて、まずは腹ごしらえ。

そして、企画展の部屋へ入ったとたんに、あの細長い木のような立像が目に入り、好きだったあの彫刻も、このアルベルト・ジャコメッティだと確信する。

ポプラの木のように、削りに削ったという印象の、まっすぐ立った、あるいは一歩踏み出さんばかりの細長い人の像。たまには、一歩踏み出したものもある。

なぜ彼には、これほどまでに人が細長く見えたのか。やはりまずは、この問いを意識しながら楽しもう。

答えが見えた気がしたのは、背の高い3人と、低くて細長い何かひとつが、ばらばらに並んだ作品の前に立ったとき。

まるで森のようだ。3人の像の高低と、でたらめのようで秩序も感じる配置が生み出すリズム。そして、この背が低くて細長いものはなんだろう。小さな木にとまったフクロウ?

で、タイトルに目をやると「3つの立像とひとつの頭像 Three figures and a head」。彼にとって、これは頭だったのだ。

なるほど。

そのとなりには、同じ題材で7つの立像とひとつの頭像がある。3つの像よりも、さらに立像が森のようで、頭像は肩まで出ている。

ぼくはこの2つの作品を見ながら、人は、地面から生え、空に向かってまっすぐ育つ木のようだと感じた。それがジャコメッティの意図なのかどうかを考えるのは、先の楽しみにしておこう。

ちょっとちがうことを感じたのは、スケッチの作品を見たとき。

勢いよく引かれた線の集まりは、線でありながら、立体の面を表現しているように見えた。細長い立像の基本デザインは、このスケッチから生まれたのだろうか。

彫刻では、偶然できたようなでこぼこが、光の加減なのかどうか、しっかり顔に見えたり腕に見えたりする。スケッチの線も、でたらめのように引かれた線の組み合わせが、やはり、体の一部のシェイプを表現しているように見える。目の部分を除いては。

この偶然のようなでこぼこの奇跡は、たぶん奇跡ではなく、たくさんの努力の成果じゃないかと考えた。

アルベルト・ジャコメッティの楽しみ方として、彼の友人でありモデルでもあった哲学者の矢内原伊作たちが、ジャコメッティをタイトルにした本を出版していることもあげられる。

帰りがけ、館内のショップで、彼女がプレゼントとしてこの企画展の本を買ってくれた。自分で選んだのだけど、こういった本を買うのは、ぼくにとってめずらしいこと。それくらい良い本だと思った。これからしばらく、ジャコメッティをめぐる文章を読むという、楽しみも増えた。できれば、矢内原や他の人の本まで読み進みたい。

彼女と2人で美術館へ行くと、大体はばらばらに移動する。それぞれの作品を見たい時間も、まわる順番もちがうからだ。で、展示室や美術館を出たあとに、一番のお気に入り作品について情報交換する。

今回の彼女の一番は、展示室の最後にあった大きな女性立像。「まっすぐ立っているのに、今にも右手が前に出て、歩き出しそうな迫力だった」

ぼくの一番は、もちろん、3つの立像とひとつの頭。

そうそう。以前から好きだった細長い立像とは、鎌倉の近代美術館で出会った可能性の高いことも分かった。この美術館には矢内原コレクションが展示されていたそうだ。

以前、よく訪れたこの鎌倉の美術館では、抽象画と呼ばれる近代作品のすばらしさを初めて実感した。残念なことに、この美術館は昨年から閉館中である。