gofujita notes

on outline processing, writing, and human activities for nature


藤沢

藤沢の田んぼや畑を、その街にくらす友人の案内で一日歩いた。藤沢は鎌倉のとなりにある大きな街。

友人はたしかぼくより5つか6つ年上。藤沢で生まれ育ち、ぼくと同じ茨城にある大学を卒業し、出版社で数年間仕事したあと、教員になりたくて会社をやめ、教職の講義を受けに大学へ聴講生としてもどったときに、ぼくと知り合った。

仲良くなって半年後、古い集落のはずれの畑に囲まれた彼のアパートのとなり部屋に引越し、2年近く一緒に犬を飼ったりもした。その犬は、全身皮膚病になったせいで捨てられ(推定)、アパート前の畑の見えるで道でぼくたちが雑談していたところへ(いつも9割くらいは内容のない会話だった.. 笑)、文字どおり転がり込んできた犬。

歩く姿も痛々しく、ほとんど全身毛がなかったその犬を獣医へ運び(ぼくたちがお金がないと思ったのか、代金を安くしてくれた)、獣医さんのアドバイスにしたがって、毎日、硫黄のにおいのするシャンプーで全身を洗い、ぼくたちが食べるよりずっと高価な肉を食べてもらううちに少しずつ元気になり、半年後にはほぼ全身に毛が生えそろった。ただし、おしりの毛だけはずっと生えてこず、でもなぜか皮膚が他の場所と同じ黒色に変わったので遠くからは目立たなかった。

ぼくたちは、その犬にピカソ(大好きな、あの画家の名前)と名づけた。ピカソは人懐っこい性格だったせいか、近所の小学生たちにもすっかり人気者になった。

いくら田んぼと畑の中にあるアパートとは言っても、安いアパートだったし、ペットを買うのは禁止だったはず。でも、人がいい感じの大家さんは、ピカソのことをよく知っていて、たまに水をあげてくれたりしていたから、まぁ、たぶん黙認してくれてるんだろうと、友人二人と勝手に決めていた。

ピカソは、それからおよそ2年後、教職の講義をとり終えて藤沢へもどり、希望どおり高校の教員をはじめた彼のもとで大変長生きをし、彼の家族の一員として、ほんとうに幸せな一生をすごし、天寿をまっとうした。

さて、その友人との田んぼと畑歩き。

おたがいに歩くのが好きなので、とにかく歩いた。少なくとも5−6時間は、どんどん(ゆっくりとじゃない)歩いた。

そして、藤沢という大きな街にも、小さな自然に残された人臭さというか人の生活の徴(しるし)のようなものが、人口増加と都市化という大きな流れの中で、しっかり残っていることを実感し、新しい魅力を感じた。

朝、少し早起きして、藤沢の市街地のほぼ真ん中にある小田急の駅の改札前で待ち合わせ。一番最近出会ったのは半年前だけど、あいさつもそこそこに、すぐ歩きはじめる。

駅をとり囲む住宅地には、真新しくてコンパクトなやや高さのあるかっこいいデザインの家が多い。そんな中に、昔からの農家が混ざっている。その農家のたとえば田んぼや畑などが宅地として売られ、そこにかっこいいデザインの家が建てられた訳だ。

農家そのものには、新しい家とは対照的に、ゆったりとした庭や倉庫、そして新しい住宅にくらべて横のスペースをたっぷりとった母屋がある。

数分歩くうちに住宅のあいだの空き地を見つける。農家なら一軒分、コンパクトなかっこいい家なら三軒分くらいの広さだろうか。少し赤っぽく見える土の地面に、よく見ると畑のうねのような盛り上がりが残っている。その隅には、農機具や資材を置く小さな小屋がある。友人は、そこが数年前まで畑だったことを知っている。

歩いた路地は、車一台が走れるほどの広さ。その路と路が出会う角には、必ずと言っていいほど、古くて小さな石の道標が立っていた。しゃがみこんで道標をよく見ると、表面に掘られた文字がかろうじて、文字と分かる程度に残っているけど、読むことはできない。明治のはじめか江戸時代のものだろうか。

そこは、江戸時代の幹線道路である東海道から近いけれど、古い農家が多いから、以前は田んぼか畑が、海岸そばの後背湿地(砂浜の内側にできる湿原)まで広がっていたのだろうか。

そう考えているうちに友人は、彼が子どもの頃、このあたりは一面の水田地帯だったことを話してくれる。たとえばこの季節、田植え前の粗起こしももまだ済んでいない雑草におおわれた田んぼから、スズメとカワラヒワという鳥の何百何千羽という大きな群れが飛び立つのをよく見た、という話を聞いているうちに、広い田んぼの中に農家や道標が立つ風景が頭に浮かぶ。

どんどん(ゆっくりとじゃない)歩いているから、20分足らずで引地川という、藤沢の真ん中を流れる川につきあたり、そこを右に折れて、川沿いを上流へと歩く。両面がコンクリートで護岸され、川底も重機で平らにならされた典型的な街中を流れる川。

昨年の台風のような増水に備え、川岸は深く垂直に近い形に、そして川全体の流れはできるだけまっすぐ、海へ向かう形にされる。周囲に大きな街があるということは、雨の水を吸い込まないコンクリートやアスファルトの地面がそれだけ広がっている訳で、その大量の水を集めて流す川は、あくまでも降った雨水を最速で効率よく海へ流す機能が必要になる、でないと洪水が起こってしまう。そうしなければいけない、というアイディアを出発点につくり変えられてきた川。そうした川をつくるため、人は磨き抜かれた土木技術を駆使し、大きな予算を投入してきた。

それでもしかし、そんな場所にも、自然と生きものたちは道をみつける。

まっすぐにしたはずの川底を流れる川の水は、淵と瀬をつくり育てる。淵ができれば、そこにキメ細かいシルトのような泥があつまり、背には石があつまり、さらさらと水が波打つようになる。

そうした強弱のついた川であれば、人が放した巨大なコイ以外の魚たちも増えることができる。水草や藻、そこにトンボやカゲロウなどの昆虫もくらせるようになり、それを食べる魚たちも生きていける。そして、その水草や藻、昆虫や魚を食べるために、カモやサギがやってくる。

緩やかなカーブの内側には河原ができ、植物が育ちはじめ、やがてその植物を食べるバッタ、そして植物の実やバッタを食べるアオジやスズメなどの鳥がやってくる。

人がその強い力で瀬と淵をなくし植物たちを徹底的に取り除いても、生きものと自然はあきらめず、川の水は淵と瀬をつくり、植物が生え、昆虫や鳥たちがやってくる。

引地川を歩きながら、そういう人と生きものたちの時間の流れの、いろんなスナップショットを見ることができた。ある場所では、重機が入り川底と河原土砂を取り除こうとしていた。その少し上流では、土手がしっかり大きくなり、ヨシに覆われ、ヤナギの木が何本も生えているところに、白いコサギがとまっている。その少し上流では、工事が終わり平らな川底と土手のないまっすぐな岸。その上流では..。

友人とは、選んだ仕事(お金を稼ぐための職業)はちがうけれど、選んだしごと(日々やりたいこと、できれば一生やりたいこと)は似ているのかなと思っている。

ちょっと恥ずかしいけど勇気を出して書くと、人間として、ぼくは彼にとてもかなわない、すごくいいヤツ。「いい人」という言葉だと少しずれていて、何かが足りない。いや、かなりちがう。こういうヤツと、引地川をどんどん(ゆっくりとじゃない)歩きながら、ばか話しの合間に、人と生きもののスナップショットから気づいた推理を出し合う時間は、やはり誰がなんと言おうと、すばらしい。

川から少し離れた斜面に森が見えはじめたなと思っているうちに両側の住宅地が途切れ、一気に視界が開ける。

田んぼとその周りの森が残ったその場所は、藤沢の人たちが「大庭の遊水地」と愛着をこめてよぶ場所。

台風などの増水時、一時的に水を蓄える遊水地の機能をもっているが、いわゆる遊水池とはちがって、緩やかに掘り下げられた場所には湿地の植物が豊かにしげり、それを取り囲むように、住宅地やマンションにならず奇跡のように残された田んぼや畑が広がり、その周りの河岸段丘の斜面にも昔からの森が残っている。神社やお寺があるから、社寺林として残ってきたのかもしれない。

ローソンで昼食を調達し、すぐにどんどんと(ゆっくりとじゃない)歩いて、反対側にある河岸段丘に広がる斜面林のふもとを目指す。森に降った雨が集まり小さな川になる。その流れとそのそばにある田んぼの水たまりと水路が目当て。2月頃に産卵されたヤマアカガエルのオタマジャクシがいるはず。

大庭は、友人の自宅から少し離れた場所にあるので、彼もこの場所には10年以上こなかったらしい。

着いてみると、残念ながら小さな川は無くなっていた。アスファルトで固められた道路の脇に流れる暗渠の水路に変わっていた。こういう水路では、もちろんオタマジャクシが育たない。

でもあきらめずに、一時間くらい、段丘斜面の森のふもとをどんどん(ゆっくりとじゃない)歩いたけれど、そのすべてが、たいへんきれいなアスファルト道路と暗渠の水路に、徹底的に変えられていた。水はけが良くなったので道の両側も乾いた畑になり、オタマジャクシのくらせそうな小さな川や水たまりはなくなっていた。

森の脇の小さなアスファルト道路は、田んぼの生きもの調査をしているとほんとうによく見かける風景。今までは、ちょっと残念な気持ちにはなったけれど、それ以上のことは、あまりイメージしなかった。

でも友人と歩いたそのときは、過去に、本当にたくさんのオタマジャクシにあふれていた小さな川や沼があったことを、10年前までここに通っていた彼の話を聞きながら実感し、彼の顔と声から読み取れる喪失感に、ほんの少しだけど胸を打たれた。

そのあとも、ぼくたちはとにかくどんどん(ゆっくりとじゃない)歩いた。途中で、何度かベンチに座って昼食をとったり(お腹が減ったから2回昼ごはんを食べた.. 笑)、彼のくれた新しいマグカップに、彼が何10年も使っているでこぼこテルモスの水筒にいれてきた台湾のウーロン茶(日本のウーロン茶とはけっこう味がちがう)を入れて飲んだりしながら歩いた。学生の頃と変わらず、9割くらい内容のない話しをしながら。

彼が生まれ育った藤沢という街を、こういう形で歩くことができたのは、偶然だったけど、小さな幸運だった。

都市化が容赦なく進む大きな街に残された小さな自然。そこにも、人と生きものがつくってきた歴史がある。めずらしい生きものがいなくても、他の人からみたらありきたりの風景であったとしても、他に変えがたい存在なのだ。

彼とどんどん(ゆっくりとじゃない)歩きながら、彼の人生の断片をとおして、藤沢という大きな街の魅力を垣間見れたのかなと、ちょっと嬉しくなっている。