on outline processing, writing, and human activities for nature
もう20年以上になるでしょうか。週末に訪れているカフェがあります。National Geographic の英語版がまだ近所の本屋で手に入った時代に、買った最新刊を家にもち帰る時間も惜しくて、この店で読もうと寄ったのが最初でした。
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カフェが、ひとつの表現の場でもあると実感した最初のお店のひとつです。店全体のレイアウト、テーブルや椅子のデザイン、壁に飾られたオブジェとポスター、テーブルの上に置かれた小さな植物、聞こえてくる音楽、飲み物や料理のメニュー、そしてマスターであるHさん編集のニューズレター。それらの一部、あるいはすべての組み合わせが、いくつものメッセージのように感じました。
聞こえてくる曲は、当時フランスのものも多かった様に覚えていますが、たくさんのブラジル音楽を初めて聴いたのもここ。ボサノヴァがラジオやネットでもめずらしかった時代から、ここへくると、ポルトガル語の曲を普通に聴くことができました。
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やがて、この店もいくつかのステップを登り、何度かあったカフェブーム、そして珈琲ブームや鎌倉ブーム?などのあと押しもあったかも知れませんが、それらのブームの谷間もたくましく乗り越え、東京やもっと遠くから訪ねてくる人でいつもいっぱいになるカフェになりました。
スタッフが増え(このスタッフの増やし方、選び方にも、なるほどなと思うところがあります)、ニューズレターがなくなり(今もたまに読みたくなります)、一度開いた珈琲グッズを中心にした別店舗やブラジル音楽専門?のCD店を閉じ、新しいメニューが加わり(今では、珈琲が中心じゃないときがあったなんて信じられない?)、この店を楽しむ人たちのにぎわいで、流れる音楽があまり聴こえない日も多くなりました。
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でも、今も変わらないものもあります。たとえば、このカフェを開いたHさんとの会話。お店が空いているときに、世間話しや冗談をほんの短い時間しか交わさないのですが、その度に安心感のようなものを覚え、前向きな気持ちになります。その理由は、Hさんがほとんど思い出話をしないからかなと予想しています。このカフェを昔から知る他の人も、似たことをどこかに書いていました。
思い出話しをしないとは、過去を振り返らないのではなく過去に逃げないこと、そして過去に逃げないとは、昔はよかったと確認しあうために話しを繋いだり、今の良さやこれからの可能性をそれとなく否定する流れをつくらない、といったことかなと考えています。
具体例として、たとえばスタッフ研修でプロレス観戦に行った企画意図とスタッフの反応をのんびり楽しそうに話してくれたことや(Hさんは彼の奥さんとともに、ぼくの知る限り世界トップレベルのプロレスファンです)、南米旅行で訪れた村や街から感じたコーヒーの世界の新しい流れなどを、ゆっくりとでも興奮気味に話してくれたことなどがあげられるでしょうか。
それは過去の話題なのですが、おもしろいと思ったり、興奮したりしているのは今のHさん。話し相手のぼくにもプラスになるかもしれないけど、無理にそうでなくていい。でも、ある経験をしてそれをある人がおもしろがっていたり、感激していたりした事実とその風景を共有する..。
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この姿勢は、人と人が言葉のやりとりをするときの些細なコツみたいなものですが、たぶん、自分と自分の会話にも応用できそうです。
自分と思い出話ししない。そうすることで、あのカフェのHさんと会話したときと似た安心感をもつことができるかもしれない。
このあいだの年末、めずらしく空いていて、久しぶりにボサノヴァの聞こえてくるHさんのカフェで、ふと思いついた小さな生きるコツの仮説です。