on outline processing, writing, and human activities for nature
小学生の頃、毎日のように道草していた。
ぼくのうちは小さな寺で、丘の上にあった。小学校からうちまでは、子どもの足で15分くらいの距離。
先生たちは、交通量の多い国道の歩道を通学路にしていたけれど、ぼくたちは当然のように、学校とうちをショートカットする田んぼの農道を歩いた。
その15分の道のりを、1時間から2時間かけて帰った。仲よかったMくんやKくんと一緒のときも多かったけど、ひとりで帰ることも少なくなかった。
おっさんになった今言えるのは、この道草の時間が、ぼくが今ここにいる大切な分岐点になっているように感じること。
Mくんたちと肩組みながら語り合ったことや (何を話したか、覚えてやしないけれど)、
田んぼ脇の土でできた水路で、水草につかまるタイコウチを眺めつづけことが (これは今も、絵や音、水や土の匂いまでありありと浮かべられる)、
今のぼくの心の声のひとつのように感じている。
将来が見えている訳ではないけれど、その将来から振り返ると、たしかにそこに繋がる今がある。
今の自分に繋がる自分の設計図が、この道草でつくられたのだ。