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ecology of biodiversity conservation

notes

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生きる覚悟の階層性. May 1 2015


アルチャン川

ロシアでの初めての本格的な仕事は、プリモルスキイ地方を南から北へ流れるウスリー川の支流、アルチャン川流域に広がる湿原にすむコウノトリの調査だった。

ハバロフスクからシベリア鉄道の硬い椅子(旧い車両のデザインがそれ以上に嬉しかった)と改造軍用トラックの荷台を2日間乗り継いだあと、調査に必要な食料や、移動に使う船外機つきの舟を調達するため、川辺にある人口3千人の小さな村に2日滞在した。やっとのことで借りた小さな舟2艘で、たしか2時間くらい上流へのぼって、川沿いにあるモンゴルナラの林がつくった高台にキャンプサイトを決めた。アルチャン川のまわりに広がる湿原の中には、小さな島のようにモンゴルナラの林が散在しているが、その中でもいちばん地面の高そうな場所を選んだ。

キャンプ地のことをロシア人たちは冗談まじりにラーゲリと呼んだ。ロシア語でキャンプという意味以外に、収容所という意味もあるらしい。

トラックで走っても走っても延々と続く森や、舟で何時間遡っても途絶えることのない広大な湿原を目の当たりにして、ぼくは背中がぞくぞくするような幸せを感じながら、その大きな自然から伝わってくる迫力に少し興奮していた。油断すると底に水がたまり始める舟で(舟主は、片手で船尾の船外機を操りながらもう片方の手で、でこぼこの大きな器を使ってひっきりなしに水をかい出していた。まあ、舟なんだから水くらい入ってくるさ、という感じで)、川面を走り抜けるときに感じた風の冷たさと清々しさは、今も忘れられない。

ユーリ

その小さな舟だけが、ぼくたちのラーゲリと人の世界を結ぶ生命線だったけれど、見るからに腹に一物ありそうな舟主は、1週間後には食料をもってくるからと言って、到着後30分も経たないうちにさっさといなくなってしまった。その舟は、この地域で生まれ育ち、今はサンクトペテルブルグの科学アカデミーで鳥の研究をしているユーリが、苦労して手配してくれたものだった。このエクスペディションのロシア側の共同研究者は、そのユーリと、やはり科学アカデミーから来たウラジミル、そしてモスクワ大学の学生だったアンドレイの3人。長期フィールドワークが初めてのアンドレイは、ユーリたちオジさんロシア人から、ややからかうように「アンドリューシャ」(アンドレちゃん)と呼ばれていた。

ユーリは、この地域の生き物について本当に詳しかった。コウノトリの巣を探していたときも、上空を飛ぶ小さな白い点のようなコウノトリの行く先を見極めると、まるで別の方向へ歩き出し、たしか1時間くらい歩いたあと(その途中、ムクドリの卵ひとつとアカモズの巣をひとつ、それにノビタキの巣を2つみつけながら)彼が正面を指差した先、遠くのゴヨウマツの古木の上にコウノトリの巣があったときには、心から驚いた。ロシア人にしては無口だったけれど、いつも屈託のない笑顔を見せてくれた。彼以上に透明な笑顔をする人を、ぼくは今も見たことがない。プリモーリエの大きな自然が育てた素朴で豊かな感性が、きっと透明さの源だと思った。

そのユーリが、やむを得ずやとった舟主を嫌っているのは、ロシア語がまったく分からなかったぼくから見ても、すぐに察しがついた。ラーゲリで代金を払ったときの、舟主の「にやり」という表情は、それまでに見たどんな「にやり」よりも、飛び抜けて悪意に満ちたもののような気がした。

その年は雨がよく降った。ぼくが現地入りしてから、雨の降らない日はなかった。ユーリやウラジミルはわざと厳めしい顔をしながら「日本からタイフーンがやってきた」とふざけては、何度も笑っていた。キャンプサイトに選んだ高台には、寝泊り用と倉庫用のテントがたしか5つ、その真ん中には、大きなテーブルがつくられた。このテーブルの上にも立派なテントが張られていて、その脇では焚き火が絶えることがなかった。アルチャン川の水からチャイをいれるお湯を沸かし、また料理をつくる場にもなるその焚き火のそばには、いつも調査でずぶ濡れになったぼくたちの服やトレッキングシューズが置いてあったが、それが完全に乾くことはなかった。

1週間もすれば雨もやむだろうと考えていたが、それは甘かった。雨は続き、やがてアルチャン川の水かさがあがり始めた。最初はラーゲリの地面からアルチャイの水面まで、2メートルくらいあった高低差が、3日目に20センチほど縮まったかと思うと、一週間目には半分の1メートルくらいになった。

ユーリたちとは、このままの雨だったら一度ラーゲリを撤収だと話していたが、そうしようにも肝心の舟がこない。無線などもちろんないので、連絡のしようもない。あの一物ある舟主を信じるしかない。

やがて10日が過ぎた。調査は雨ニモマケズ進めているけれど、舟はこない。山のように運んだ食物も底をつきはじめ、サーロと呼ばれる塩漬けの豚肉と、雨でふやけた保存用のパン、釣りの大好きなウラジミルの獲物である大きなナマズが主なメニューになった。降り続く雨は、ラーゲリの地面とアルチャンの川の面との高低差を、1メートルよりもさらに小さくした。

歩いて移動できる範囲で一番の高台がここなので、他に逃げ場所はない。対岸が少し高い丘になっているのだが、そこをクマ(たぶんヒグマ。ロシアでは、蜂蜜好きという意味のメディベーチというかわいい音の名前で呼ばれることが多い)がのんびり肩を揺すって歩いているのが見えた(口ひげのウラジミルさん談)し、何よりも水量も多く流れの強いアルチャンを泳いで渡るのはかなり危険だと、たぶんみんな心の中で思っていた。

黒い雲が風に乗り、あっという間に地平線まで飛んでいく。その雲を見ながら、この見渡す限りの湿原が、一面、水の中に埋まる様子をはっきり想像することができた。その中を歩いて移動することは、不可能ではないだろうし、運がよければここよりも高台の安全な場所が見つかるだろう。でもそれはここからは見えない、5キロ、いや10キロ以上離れた場所だ。天気がよくても湿原の中を歩くのは体力を使うし、水かさの増した中なら、乾いた平らな地面の3−4倍の時間がかかると考えた方が良い。だから、その高台をみつけてそこに着くまでには、短くても半日はかかると見ておこう..。

そう考えながら、ぼくは自分たちのおかれている危険の大きさをはっきりと意識した。顔には出さないようにしたつもりだが、ラーゲリ生活が始まって10日目前後の2晩ほどは、眠っているあいだにラーゲリが濁流に流される夢を見て目をさましたりした。

生きてみよう

そして11日目の朝。自分の生きる覚悟が1階層あがった。

目に映るものが、すべてはっきりと見えた。好きではあったけれど、やはり憂鬱の源でもあった見渡す限りの湿原と、遠くにけぶるモンゴルナラの小さな森たちが、直接心の中に入ってきた。空を覆う雲が風の中で繊細に形を変え、地面からのぼったばかりの太陽の光の乱反射が、垣間見えたりした。

人は大きな自然の中で、とても弱い存在である。でも、それを知りながら、仲間に向かって心からの笑顔を見せられる人ほど強い存在もいない。どんなことになっても生きてみよう。最後まで諦めないでいよう。そう覚悟すると、人生はとても豊かになる。それまで味気なかったサーロの塩辛さは生きる実感となり、アルチャンの泥水でつくったチャイほど美味しいものもなくなる。

覚悟の階層性

結局、あの舟主がでこぼこの器で水を掻き出しながらやってきたのは、約束よりも1週間あとだった。雨は降ったりやんだりに変わり、たぶん上流での降水量が減ったのだろう、アルチャンの水位はラーゲリとの差1メートル弱でしばらく止まったあと、ゆっくり下がり始めた。

この経験をとおして、ぼくはこう思うようになった。人はみんな、自分が生きようとする覚悟に階層性をもっている。階層だから、今自分がいる階層での理屈が、新しい階層の発見には役立たないことが多いし、そんな大きな覚悟なんて自分の中にないんじゃないかと感じることも多い。でも、それはちがう。

たとえばここに出てきたユーリは、ぼくとくらべものにならないほど大きな階層の覚悟を経験し、自覚しているのだと思う。そしてそういう人たちは、どんな状況でも笑顔を忘れないし、なぜだか、言葉をとても大切にしている。あと、溢れるような、それでいて自然なやさしさをもつ人も多い気がする。


35日間のラーゲリ生活が終わる少し前、めずらしく晴れが2日くらい続いたとき、優秀なハンターでもあるウラジミルがノロジカを射止めた。その捌いたばかりの新しい肉を薄めに刻んで入れ、塩と秘密の調味料(口ひげウラジミルさんご自慢)で味付けしたカーシャ(お粥)のおいしさときたら! みんな、お腹の底からやわらかくてとけるような味を満喫し、その喜びを分け合う仲間との時間を称えあった。

このとき、ぼくはまだ、アンドリューシャより少し上の20代なかば。若くしてこの大切な経験をした僥倖に、今も感謝している。



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